教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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右手峠(2)

★★★

右手峠(うてとうげ)の取扱説明書

美作北部の県境に一際存在感の薄い峠がある。県道智頭勝田線と呼ばれる主要路で、曲りなりにも県界を跨ぎ一桁県道という肩書を持っている。しかし左右を志戸坂・黒尾越えの両雄に挟まれている為か、大方のドライバーの眼中には無いに等しい峠道で、実際に平日の通行量は主要県道とは思えぬほど閑散としている。断っておくが当物件は旧廃道に乏しい期待薄の峠道である。右手峠はその期待値に違わぬつまらなさで見事に応えてくれる訳だが、どうしても当路線を取り上げない訳にはいかない必要に迫られた。その理由は他でもない黒尾峠の存在感を際立たせる為だ。脇役あっての主役だとすれば右手峠は名脇役として外せない存在で、肉じゃがのじゃがいもに相当する必要不可欠な具材で、それ無くして肉じゃがは成立し得ない。新旧道の比較も大事だが並走路線との対比もまた重要で、両者の相乗効果は計り知れないものがあるし、峠道に対する見方が大きく様変わりするかも知れない。本件はセンセーショナルな旧廃区に頼らないレポートが成立するか否かの挑戦であり、またマイナー道路が主役に成り得るか否かの試金石でもある。黒尾峠のスピンオフとして右手峠を成立させるべく、県道の今昔を余す事なくここに封じ込める。

 

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◆十字路を過ぎると沿道は宿場のような雰囲気に変わる

国道429号線とは何とも摩訶不思議な路線で、西は岡山県の倉敷から東は京都府の福知山まで山間部をのらりくらりと伝い、時間ばかり浪費する全く実用性に欠ける暇人向けの路線である。今時この地味な国道を完全踏襲する者は、定年を迎えた団塊夫婦が操るキャンピングカーくらいのものだ。

複数の県道を半ば強引に繋いで一本化し国道に昇格した事で、訳の分からなさが際立って映るが、この界隈で言えば県道津山大原線という真っ当な地方の主要路として成立していた。その路線が勝田市街地の中心で折れ曲がっていたのが、現在は十字路と化している元T字路の交点である。

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◆道幅はそれなりに広いが依然として街道臭が漂う

国道昇格に伴うバイパス化でかつてのT字路は十字路に変更されているが、栄橋を渡る狭隘路が一時期は国道を名乗っていた。それは新旧道の交点から元T字路までの短い区間で、国道指定されていた時期も僅か数年と短い期間ではあるけれど、晩年は国道の肩書を持つ所謂旧国道なんである。

その当時の国道はT字路で折れ曲がっていた為、交点より先は今も昔も国道とは何の関わりもないが、勝田市街地の旧道筋に一度は国道指定を受けた旧国道区間が含まれている点は大変興味深い。かつて国道429号線が折れ曲がっていた元T字路、そこが一時代前の県道7号線の起点でもある。

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◆大型車と歩行者の擦れ違いもままならない狭隘区

元T字路より先の路は両側を重厚な古民家が囲う御屋敷街となる。江戸時代より継承される武家屋敷調の旧家等は認められないが、宿場時代の雰囲気は今も僅かながら残る。家屋のほぼ全ては現代風に改められているが、歪な線形が放つ街道臭はどうやっても掻き消す事は出来ない。

バイパスの成立によって市街地中心部の拡幅は大義を失っているから、勝田市街地に漂う街道臭は未来永劫放ち続けるに違いない。中山道や木曽路に残る派手な宿場とは比較にならないが、ここ勝田にも奥深い歴史がある事実は、見る者が見れば分かる。その一例が宿場の出入口付近に架かる古橋だ。

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◆勝田市街地の北側にも古風な短橋梁が認められる

パッと見の竣工年は昭和初期から戦前のもので、そこに江戸時代の様相を重ね合わせる事は出来ない。しかし宿場の前後に架かる二本の古橋は代を重ねる毎に進化し、最終的に永久橋と呼ばれるコンクリ製の重厚な橋梁に落ち着いたものと思われ、それを遡れば自然と江戸時代の石橋へと辿り着く。

親柱の銘板に小井ヶ口橋とあるその橋梁が、江戸時代も渡し舟ではなく短橋梁で結ばれていた可能性は極めて高い。というのも栄橋にしてもそうだが橋長はどちらも10mに満たないし、川底と道路の高低差も5m前後と高が知れている。そこに難易度云々の疑問を呈す方がどうかしている。

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◆親柱には昭和十年十二月架設と刻まれている

隧道と違って江戸時代には橋梁が当たり前のように存在したし、架橋の難易度が長さと高低差と水深に比例するとすれば、栄橋と小井ヶ口橋は共に江戸年間の架橋技術で十分対応出来たはずで、それらが宿場の前後に位置する事を思えば、初代の橋が石橋或いは木橋であった可能性は大である。

仮にここを渡し舟で連絡するにしても、そもそも日常下では水量が足りなさ過ぎて、舟便が成立し得ない。従って江戸年間に橋が存在した事の不自然はない。むしろ地形的に橋で渡さないと勝田市街地が陸の孤島のようになり、非常に使い勝手の悪い仕様となってしまう。

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◆かつての県道7号線と県道53号線の交点

結論として勝田市街地に現存する橋梁群は、江戸時代に端を発する古橋である可能性が高い。その後何代も付け替えられてきたであろう橋梁は、昭和10年代の架設を最後に更新が途絶えている。恐らく竣工年の記載のない栄橋も同時期のものと思われ、そうなると両者は80年選手の古豪という事になる。

戦争並びに世界の奇跡と謳われた高度経済成長、そしてバブル崩壊からアベノリスクに至るまで、我が国の盛衰を見守ってきた重鎮は、まさに永久橋に相応しい健闘ぶりである。その片棒を担ぐ小井ヶ口橋の目と鼻の先の十字路が、県道51号線と旧県道7号線の交点だ。

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◆勝田宿を抜ける旧道とバイパスが重なる新旧道交点

十字路の直後に旧道は現県道に吸収され消え失せる。その路面には引っ剥がされたとはいえ、今もはっきりと止まれの文字を読み取る事が出来る。バイパスの成立以後もしばらくは県道7号線の新旧道交点が使われていた証しだ。

現在そこは歩道扱いとなっていて、車止めによって四輪の通行は叶わない。押せば歩行者扱いとなる単車は、こういう場面でこそ威力を発揮する。勝田の宿場を抜け県道51号線との交点を経て、いよいよ純粋な県道7号線の調査が始まる。

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