教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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犬畑峠(24)

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犬畑峠(いぬはただわ)の取扱説明書

旭川の源流にして県下最大の貯水率を誇る湯原湖は、今日現在中国地方最大の水瓶として広く知られる。その知名度は今や全国区で、ダム直下の川原に湧く天然の湯に入らんと、休日ともなれば観光客がわんさと押し寄せ、芋洗い状態になる事も珍しくない。背後の巨大建造物と天然温泉のコラボは、日本広しと言えども滅多に御目にかかれるものではなく、有り得ないシュチュエーションは一見の価値がある。だが中国地方最大の人造湖の魅力は温泉だけに留まらない。ほとんどの人は気付いていないが、実は道路史的に大変興味深いエリアで、湖底には難破船の金銀財宝に匹敵する御宝道が眠っている。その片鱗は方々に散らばっており、全てを白日の下に晒した暁には、湯原・蒜山界隈の常識が覆るのは必至だ。新見夏の陣で大捕物を果たした今、県下最大のラビリンスと言っても過言ではない湯原湖。その牙城を崩すのは有名無実の峠と呼ばれて久しい犬畑峠。初動調査から実に3年の月日が流れたが、現場では我々の想像を凌駕する展開が待ち受けていた。当レポートは将来的に潜水艦を導入するきっかけになるかも知れない希有な機会である事を付け加えておこう。

 

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大雨が降った場合このあたりまで水位が上昇する事があるので注意してください。

危険 進入注意

湯原ダム管理事務所

 この立て札をみる限り管理者は明らかに第三者の進入を快く思っていない。叶うなら入って欲しくないという思惑がみえみえで、湖岸で事故があった際の責任問題を回避する免罪符として札は機能していたと思われるが、それも橋が落ちた今となっては単なるオブジェと化している。

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以前はRV等の車両が湖岸へと乗り入れ、家族連れがキャンプや釣り等を楽しんでいたようだが、アプローチが断たれた湖岸道路は藪化して久しい。落橋まで第三者を強制排除出来なかった理由は、湖岸で行き止る盲腸線が誰もが無条件に行き来出来る公道として存続してからに他ならない。

かつてここを訪れていたキャンパーや釣り人達の目に、この道は湯原湖へ通じる幾つかある連絡路のひとつに映ったかも知れない。しかしそこは土居分という名の集落跡で、小学校に郵便局に駐在所が構える、そこそこの規模の町が存在したのだと婆ちゃんは語る。

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全てが湖底に沈んでしまった今となっては想像すら出来ないが、かつてこの辺りは朝夕の通勤通学時間帯ともなればそれなりの車両が行き交い、子供達の黄色い声が木霊する、それはそれは賑やかな場所であったという。それが今から遡る事50年以上前の日常的な光景であった。

道路は川の左側を忠実になぞるも、一部が歩道サイズさえ残さぬ取り付く島のない絶壁と化している。その為仕方なく川を渡って右側に移動するも、対岸から望む道床側面の石垣以外に人工物は一切認められない。堆積した川砂の下に何もかもが埋没してしまったのであろうか?

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それとも意図的に集落は破壊されたのであろうか?建物一つ取り壊すにもそれなりの労力と金銭を必要とするから、ダムに沈んだ集落の多くがそうであるように、ここ土居分もある日突然人間だけが消えたゴーストタウンと化し、貯水開始と共に誰にも看取られずに静かに姿を消したに違いない。

ある地点で道路跡は有耶無耶となっている。山道の続きがどこをどう伝っていたのかはさっぱり分からない。湖の最も深い谷底付近を伝っていたと想像されるが、湖底へと繋がる道筋の発見には至らなかった。だが恐らく“それ”と思わしき遺構が、僕の目の前に唐突に現れた。

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見てくれ、この道路とは無関係の巨大な人工物を。大邸宅の跡地を彷彿とさせる造りであるが、上段へと導くスロープが個人邸に収まる規格ではなく、明らかに公共の施設跡を連想させる。場所は日当たりの良い高台に位置し、旭川の氾濫にも耐え得る安全地帯にある。

それがかつてこの地区に存在したという小学校跡地と気付くのにそれほど時間は掛らない。これは土居分という一定規模の町が確実に存在した証しだ。現在の地図では黒杭が幅を利かせているが、黒杭とは土居分の外れに位置する小集落で、古地図では両者の優劣がはっきりとしている。

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土居分は四方の小集落から人を集めるだけの公共施設を有し、この界隈の中枢機関であったと推察される。それは隣接する小学校並びに郵便局が、蒜山と湯原の今でも人気を二分する両者の中間に位置する地勢的背景からも頷かざるを得ない。

蒜山⇔土居分⇔湯原

土居分がその昔から交通の要衝として栄えていた事は、湖岸に散見される遺跡の年代からも読み取れる。現場には天保や寛政といった江戸時代を象徴する石像物が、無造作に転がっているのである。

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そられが他所から持ち込まれたり投棄されたものでないとすれば、この地は江戸時代から栄えていたと解釈するのが妥当で、湖岸の至る所に現存する遺跡群が、蒜山と湯原の中継地として繁栄した土居分の歴史を物語る。

中継地と結論付けるにはそれなりの証拠を掴んだからで、婆ちゃんは何気ない会話の中で土居分の立ち位置を示すこれ以上ないキーワードをぶっ放した。

昔はほうき街道と呼んでいた

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