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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>苦ヶ坂 |
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苦ヶ坂(10) ★★★ |
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苦ヶ坂(くがさか)の取扱説明書 この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、苦ヶ坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス苦ヶ坂の全てを白日の下に晒そう。 |
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◆ 純粋な江戸道に対する大いなる違和感、それは切り通しを抜けた直後に現れる左カーブでムムッ!とスイッチが入ると、続く曲率半径5m前後の究極のヘアピンカーブで決定的となった。これは人畜のみが有効の一時代前の路ではない。かといって車両の通行を許す規格でもない。 単なる人道ではないが車道でもない。このアバウトな線形を岡山県下ではこれでもかというくらい目の当たりにしてきた。そう、他でもない力車道である。明治黎明期の車両解禁により当座を間に合わせる為に突貫で拵えられた暫定車道、その規格外の路がここ苦ヶ坂にも認められるのである。 |
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◆ 確かにその下地はある。苦ヶ坂越えの新道は明治15年に日の目を見ている。馬車や荷車が明治10年代中盤を境に峠道を活発に行き交っている。その動きを早いとみるか遅いとみるかだが、全国的な車道の成立時期としては極めて妥当である。但し岡山県外であればの話だ。 御存知のように岡山県下に人力車が持ち込まれたのは明治4年と早い。東京と700kmの距離を隔てた地方の町で、人力車の早期導入は異例であるが、それには神戸の存在が大きく関与している。東京で駕籠が駆逐された翌年には、関西随一のハイカラな港町に人力車は持ち込まれた。 |
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◆ その勢いで神戸から姫路、姫路から岡山と瀬戸内沿いを繋ぐ山陽道を伝って、或いは瀬戸内海を航行する帆船に揺られ、明治4年の岡山市街地で人力車は営業を開始する。まだ江戸時代を引き摺ったままの状況での参入は、車夫が丁髷姿の男達が牽引する姿にみる通りである。 始めこそ営業範囲は路盤がしっかりとしている城下町に限定されたであろうが、それほど時間を経ずして県下全域に爆発的普及をみた事は、人力車の存在を村人が煙たがる当時の新聞記事や長距離便の存在を示唆する運賃表などからも明らかで、今では導入経路の存在もほぼ確定している。 |
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◆ 人力車を搬入するには道路の整備が欠かせない。人畜のみが有効の古来の街道筋では、人力車を分解しなければ山間部には容易に持ち込めない。まだ自転車すら無い時代の海の物とも山のものとも分からない未知なる乗物を、分解して運び込み現地で組み立てるのは容易でない。 だが岡山では旧態依然とした脆弱な路を伝わらなくとも、容易に重量物を山間部に移入可能な経路が既に確立されていた。他でもない高瀬舟がそれだ。高瀬舟は川の下りでこそ威力を発揮するが、上り便がなければ継続的な運行は成り立たない。地味ではあるが船頭による力技で舟は源流へと遡上していた。 |
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◆ 下りは荷物満載でも川の流れに任せて豪快に滑り降り、帰路は往路の何倍もの時間を掛けて遡上する非効率な運用で高瀬舟の営業は成り立っていた。その非効率さゆえに鉄道に駆逐された訳だが、空荷同然の上り便に米俵等の重量物と比べ遥かに軽量の人力車が紛れ込んでいたと僕は睨んでいる。 確たる証拠は無い。ただ真っ当な道路が整備される以前の県北域に、忽然と姿を現す人力車の導入経路を説明するには、高瀬舟の上り便に積載されたと考えるのが妥当であり、高瀬舟に人力車が搭乗するシーンは、絵画に於いても写真でも残されているという現実がある。 |
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◆ 吉井川の上流に位置する津山界隈では明治5年、旭川の中流域である福渡でも明治8年に人力車が活躍していた事実を踏まえれば、岡山三大河川のひとつ高梁川の拠点にして高梁と二分する最大の貨客集積地である新見に、人力車が明治二桁まで持ち込まれなかったというのは少々考え辛い。 市史は語る、明治8年には新見界隈に人力車が疾走していたのだと。その根拠となるのが新見を起終点とする人力車の運賃表である。 明治一桁の新見で人力車が営業 |
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◆ 東城と新見を結ぶ新道が成立したのは明治15年である。いつ頃営業を開始したのかは定かでないが、明治8年現在の新見界隈で人力車は活躍していた。果たしてそれから7年もの間、営業範囲は市街地に限定されていたのであろうか? 違う、人力車は間違いなく苦ヶ坂を越えている。明治新道の成立を待たずして江戸道の改修によって当座を凌いだのだ。10年前後の短期間ではあるけれど、人力車は東城と新見を結ぶ最古の峠道に轍を刻んだ。 苦ヶ坂11へ進む 苦ヶ坂9へ戻る |