教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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苦ヶ坂(8)

★★★

苦ヶ坂(くがさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、苦ヶ坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス苦ヶ坂の全てを白日の下に晒そう。

 

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あいや〜!

何なんだこの線形は。切り通しを抜けた先に待っていたのは、常識的には有り得ない極めてイレギュラーな路であった。見てくれ、左90度に急カーブを描く山道の姿を。僕は急斜面を転げ落ちるようにして伝う激坂道を覚悟していた。そりゃそうだろう、当山道は明治道が成立する以前に供用された最古の路、即ち江戸道なのだから。

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神代側が単車ではどうにもならない激坂の小径であっても何等不思議でないし、R361の姥神峠やR151の青崩峠、それにあゝ野麦峠の舞台となった馬車道成立以前の旧野麦峠など、数多の旧街道がヘナリワンを跳ね返してきた現実からして、通行不能に陥るのは必然と言っても過言ではない。

幾多の街道筋で撃沈してきた僕の経験則からして、街道筋は車両の往来に関して全くと言っていいほど対応してはいない。何故なら江戸年間は幕府が車両による長距離移動を禁じていたからだ。その縛りは全ての貨客輸送に及び、例外として城下町など限られたエリアで大八車の移動は認められていた。

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物資の輸送は牛馬や人の背を頼るより他なく、陸路に関しては距離が延びれば延びるほど、その慣習は顕著となる。その非効率な移動手段を最小限に抑える手立てとして、海洋は弁才船、河川は高瀬舟が大いに活躍した。江戸時代の長距離移動は船舶の独壇場であった。

しかしながら水路のみでは重要港湾等の拠点同士の連携は出来ても、山間部同士の横の繋がりは保てない。従って陸路での補完は必至で、周辺の村々と直接的に繋がる数多の小径が張り巡らされる事になる。しかしそのどれもが人畜のみが有効の、幅員1m前後の小径に過ぎない。

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それは五街道と呼ばれる主要街道でさえ例外ではなく、大八車の通り抜けを許さぬボトルネックが断続的に立ちはだかり、陸路による大量物資輸送は非効率極まりなく、車両による往来は事実上不可能であった。しかし当山道の神代側には非効率極まりない山道の姿はどこにもない。

あるのはヘアピンカーブを駆使した近代道路の片鱗で、曲率半径5m前後の究極のU字カーブが異彩を放っている。一度停まったら再スタートは難しい勾配のきつさが少々アレだが、ウインチ等を駆使すればジムニーでも踏破出来なくはないし、現にヘナリワンは平然とこの難局を克服している。

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ヘアピンカーブを曲がり終えると安定した幅広道が現れ、そこだけは対向からいつ四輪が現れてもおかしくはない空間が広がる。勿論空間だけではない。足元の様子も新見側と変わりなく2m幅の平坦路が続く。笹の群生に覆われ道路と斜面の境界線が判然としないが、山道は明らかに車道のそれを保っている。

ここを現代の車両が駆け抜けた可能性は限りなくゼロに近い。もしかしたらエンジン駆動車ではヘナリワンが初というのも無きにしも非ずだ。曲率半径5m前後の急勾配のヘアピンカーブは、とてもじゃないが現代の車両が克服出来る代物ではない。それでも僕は車両の往来を信じて止まない。

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何故ならこれと似たような物件を既に経験済であるからだ。僕は直感的に思った。当山道に於ける神代側の線形は、休乢の旧旧道に酷似していると。休乢はヘアピンカーブこそ認められないものの、直角に折れ曲がる勾配のきついクランクがあり、普通に考えて車両の通行は不敵に思える。

しかしながら休乢では現地古老軍団の証言により、人力車による往来が白日の下に晒された。その事例を以てすれば、休乢から直線距離にして40kmと離れていない新見界隈に於いて、文明の利器を用いずに馬車道の成立まで我慢に我慢を重ねたという解釈には無理がある。

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それが県下でも有数の拠点となると尚更で、高瀬舟の発着地として栄えた新見で、休乢で成立し得るものが苦ヶ坂で不成立という方程式は成り立たないし、その逆はあっても休乢優位説というのは考え辛い。

ここ苦ヶ坂では明治15年に馬車道が拓かれるが、それを待たずして車両が往来したと捉えるのが妥当で、現に当山道は最短距離を重んじる斜面を直登する純粋な江戸道とは一線を画し、距離損含みの緩勾配の路となっているのである。

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