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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>苦ヶ坂 |
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苦ヶ坂(6) ★★★ |
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苦ヶ坂(くがさか)の取扱説明書 この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、苦ヶ坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス苦ヶ坂の全てを白日の下に晒そう。 |
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◆ 稜線はもう手の届く位置にある。なのに道路規格はミニ四駆の通行を許す2m幅を維持している。この現実を目の当たりにして車道による越境を期待しない方がどうかしている。頂上で車道が終点を迎えるというパターンも無きにしも非ずだが、旧道の開削記念碑にある一文が弥が上にも期待値を押し上げる。 それは明治15年に川面峠越えの車道が完成したという文言だ。通常はその年を車道の起源と見做すであろうが、それを額面通りに受け取っていたのではORRの存在意義はない。それ以前はどこをどう通っていたのかという疑問が生じなければ嘘だ。その問いに対する答えがまさにこの山道そのものにある。 |
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◆ 木々の隙間には左右共に稜線の姿をはっきりと捉えている。それはもうこれ以上上り詰める必要がない事を意味する。ここに来て足元の様子はいよいよ判然としなくなっているが、代わりに簡易休憩所らしき小屋が視界に飛び込んでくる。一時代前であれば茶屋として成立したであろう人工物だ。 路上を隙間なく覆い尽くす植物によってアクセス状況は把握し難いが、幅員は2m幅そのままに小屋へと続いている。手前には転回場所らしき膨らみが認められ、資材や物資搬入は間違いなく自動車によって行われたものと思われる。つまり最低でもこの小屋までは車両が乗り入れているという事だ。 |
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◆ 放っておけば下草が大繁殖し、今頃は笹の群生が壁のようになっているはずだが、こうして苦もなく山小屋まで単車で到達出来るという事は、何者かの手によって山道が定期的に刈り払われている証拠だ。小屋の内部も随分と小奇麗で、定期巡回が成されているのは間違いない。 小屋の手前には教育委員会が設置した案内板が認められ、ここには古くから夕間地蔵が祀られていたとある。パッと見は休憩小屋に映った建造物は、祠をグレードアップしたものであろう。内部には杖や飲料水が用意されている事から、今も一定の通行者がいると想定してのサービスと思われる。 |
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◆ 現在は新見市の史跡として扱われている夕間地蔵であるが、一時代前は旅人の為の純粋なお休み処として機能していたに違いない。案内板はその点に一切触れていないが、ここに営利目的の茶店があったとしても何等不思議でない。何故なら当山道が広島県の東城へと続く主要街道であるからだ。 明治15年の新道が拓かれる以前は、何人もこの山道を通る以外に選択肢はなかった。新道の成立によって通行者は減少に転じるが、旧街道筋が直ちに衰退した訳ではない。例の如く新道は山中をのらりくらりと伝っており、対する旧街道は直登による最短経路を辿っている。 |
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◆ 徒歩による移動であれば断然旧街道の方が速く、徒歩移動が主流であった昭和30年代までは、当山道が移動経路の選択肢に成り得た。先行する鉄道に加え昭和26年には川面峠越えの路線バスが走り出すが、丁度その頃が旧街道筋存廃の分水嶺であったと考えられる。 昭和5年に先行開通していた東城⇔新見間の鉄道路線に加え、競合する峠越えのバスが開設された事で街道筋の存在意義はいよいよ失われ、昭和30年代を待たずして当山道は移動経路の選択肢から除外される。この道は少なく見積もっても半世紀以上も前に現役を退いている。その結果がこれだ。 |
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◆ 保存会とか教育委員会やらが山道の廃道化を阻止せんと尽力しているであろう事は間違いないが、何だかんだ言って夕間地蔵までという条件付きで、そこから先は常人では抵抗感が大き過ぎる激藪が待っている。僕もいきなりの放置プレイに一瞬怯んだが、この状況は想定の範囲内である。 ってか夕間地蔵より先の路は想定を上回る道路規格となっている。どこかで歩道サイズに縮小するのではないか、その懸念は常に付き纏っていた。しかし実際にそうはならなかった。それは夕間地蔵を通過してもだ。そんな馬鹿な!という意見が聞こえてきそうだが、僕は見てしまった。藪底に沈む幅広道を。 |
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◆ 夕間地蔵より先は激藪が壁の如し立ちはだかり、常人の行く手を拒んでいる。V字の藪塊は辛うじて人一人の通行を許しているが、整備された登山道を主戦場としている一般ハイカーの手に負える代物ではない。 しかし般ピーが撤退を余儀なくされる山道は、単なる藪道ではなかった。藪底に身を潜めるとそこには2m幅の平坦路が認められた。2m幅の路の続きはまだ終わった訳ではなかったのだ。そして視界前方にお待ちかねのV字の窪みが現れた。 苦ヶ坂7へ進む 苦ヶ坂5へ戻る |