教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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九の坂(13)

★★★★

九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。

 

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交点そのものが存在しない

そう、かつて県道378号線と呼ばれた山道と県道8号線がぶつかる畑原の交点は、四半世紀前に設けられた比較的新しい交差点で、それまでは山道へと続く一本道があったに過ぎず、鉄道と並走する快走路は影も形もなかった。

その事を現代のドライバーに説明したところで誰一人信じないであろうが、地元生え抜きの中高年であれば大方がいまだにはっきりと当時の様子を認識している。その頃の本線はあくまでも九の坂を越える山道であったと。

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岡山鳥取県道8号新見日南線は神代を境に一部と二部に分かれる。ひとつは新見市役所付近を起点とし備中神代駅付近までの峠道で、もうひとつは神郷の物産館を起点とし県界を跨いで生山に至る分水嶺越えで、前者を川面峠、後者を谷田峠と峠の視点で分けて考えると理解し易い。

二つの峠を跨ぐ県道8号線は、新見市役所と日南町役場を強引に結び付ける形で成立しているが、昭和49年の九の坂トンネルの開通以前は神代の商店街に県道の起終点があり、そこには今も行き先に米子と表示された青看が掲げられている事は、川面峠のレポートでお伝えした通りである。

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その当時は川面峠が国道182号線を名乗っており、県道8号線は神代から伯備線と並走する形で西川沿いを遡上していた。九の坂トンネル開通後は起終点がレストランしんごうが構えるT字路に移ったが、それと同時に川面峠が県道に降格し、谷田峠と川面峠が一本線で結ばれる事となった。

歴史的背景からは核となる谷田峠を含む県界越えの区間が主で、後付けの川面峠を従の二部構成と見做す事が出来る。その一部の起終点となるレストランしんごう付近では、県道8号線がリニューアルする以前のみすぼらしい姿を拝める。神郷跨線橋と並走する岩壁にへばり付く狭隘路がそれだ。

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一見するとその通路は単なる歩道に過ぎない。事実歩道を備えない二車線の快走路を避けたチャリや歩行者が行き交っている。その状況を見る限り歩道を完備しない跨線橋に市民からクレームが寄せられ、後で取って付けたかのような苦肉の策に映る。しかしそうでない事は銘板が物語る。

神郷跨線橋に設置されたプレートには平成元年二月竣工とある。つまり現在の快走路は今から遡る事大凡四半期前に具現化されたもので、それ以前は岩壁にへばり付くこの狭隘路が本線を名乗っていたのだ。その幅員は驚異的な狭さで、常識的に考えて2トン車の通行がやっとの道幅でしかない。

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道中は普通車同士が擦れ違える膨らみがあるにはあるが、最狭部が歩道と見間違う程の幅員しかない事実は揺るがない。あくまでも膨らみは離合箇所であり、その道幅が標準サイズではない。昭和の晩年までその規格によって県道8号線は運用されていたのだ。

小谷のおばちゃんはまさにこの道を10トン車が往来していたと言っているのである。一体全体どのようにして捌いていたのか想像し辛いが、当時国道であった川面峠にも幅員3mあるかないかの狭隘区が随所に垣間見られるから、県道8号線の旧道が驚愕に値するかと言えばそうでもない。

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但し現在の快走路しか知らない世代からすると、受け入れ難い乖離があるのは間違いない。ただその旧道でさえも実は戦後になって構築された古くて新しい道筋である点を押さえておかねばならない。レストランしんごうを起点とする道筋は、戦前には影も形もなかったのだ。

正確を期せば人力車や馬車の通行を許す道は存在した。その姿は歴代の地形図にも描かれているし、小谷の婆ちゃんは昭和一桁の時点で小型の自動車一台が通れる道があったと付け加える。ただ大型車の通行を許すように改善されるには、戦後まで待たねばならない。

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それまでは猫も杓子も九の坂を越えるしかなく、昭和3年に開通した伯備線が道路整備の遅れに拍車を掛けた。当時は足立石灰の石灰石を専用の貨物列車が運搬していた為、トラックによる積み出しは想定されていなかった。

まだトラックが市場に出回り始めた黎明期でもあり、鉄道の優位性が絶対的であった昭和の初めに伯備線が全通してしまった事で、輸送形態が馬車から鉄道へとシフトし、結果足立から東城方面へ抜ける道の整備が大幅に遅延した。

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