教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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九の坂(12)

★★★★

九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。

 

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路線バスの勃興期である大正年間は、どの路線も例外なくシボレーやフォードといった外車を改造して間に合わせている。それが元号が昭和に変わる頃にはバスの大型化に拍車が掛り、あれよあれよという間に現在のマイクロバス程度へと肥大し、乗客も二桁へと勢いを増す。

バス急成長のきっかけは大正12年の関東大震災で、鉄道の復旧が遅々として進まぬ中、逸早く復帰を遂げ庶民と足となったのが路線バスであった。被災地での早期復旧並びに機動力が高く評価され、バスは鉄道に勝るとも劣らない交通インフラとして市民権を得るに至る。

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上の古写真は昭和3年の新見駅前の様子で、その頃のバスはボディの全長や車窓の数等から、既に定員が10人以上となっているのが分かる。昭和も二桁に入ると更に大型化が進み、定員はいよいよ20人を超えてくる。勿論古老軍団が目撃した九の坂越えのバスはそれよりも上をいっている。

戦後しばらく経っても走り続けたという峠越えのバスは、定員30人前後と思われる小型のボンネットバスで、身振り手振りで当時のバスを表現する上市及び小谷の古老談は、現在のマイクロバス程度の規模で一致する。峠道の現状からはマイクロバスの通行は極めて困難という印象がある。

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しかしそれは人の手がほとんど介在しない荒れ放題の路という特別な条件下での印象に過ぎず、この峠道をバスが往来していた時分は、いつ何時も車両の往来を許す状態をキープし、我々が知る九の坂とは180度異なる快適な路であったものと推察される。

何故そう言えるのか?それは道路看護人がいたという証言を得たからだ。布原の古老は断言する。当時の山道では道路看護人が四六時中目を光らせ、障害があれば直ちに補正するという徹底ぶりで、長期に亘る通行止は記憶にないという。そりゃそうだ、公務員が常時監視しているんですもの。

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倒木を発見すればすぐさま解体撤去し、崖が崩れていれば土砂を除去し、水溜まりを発見すれば直ちに砂利を足すといった感じで、小さいうちに芽を摘む事で大事を避けてきた。台風直撃や地震による大災害は別にして、通常の障害は道路看護人の手によって取り除かれていた。

交通量が激減していたという昭和30年代は兎も角、米子へのメインルートとして川面峠と双璧を成していた昭和20年代は、川面峠同様ここ九の坂にも道路看護人がいたのは間違いなく、没落して久しい現況と同じ山道とは思えぬ立派な路であったのは想像に難くない。

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放置プレイ全開の路と管理されている道とでは、恐らくドライバーの印象は180度異なる。どんなに狭い道でも常日頃から人の手が介在していると分かる道は安心して走れるもので、例え未舗装というマイナスポイントを差し引いても、当時の方が余程快適に行き来出来たのではないか。

畑原の集落へと抜け出ると、法面から雑草の一部が路上へと迫り出し、誰がどう見てもかつてバスが往来した道には見えない。しかしそのギャップこそがこの道のポテンシャルを示唆し、余計なものを取り除けば僕等が思っている以上に真っ当な路が出現する事を意味する。

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その昔は十指に余るほどの人家が軒を連ねていたのかも知れないが、現在の山道沿いには三軒の家屋が認められるに過ぎず、生活臭が漂っているのはたった一軒のみである。そこに住まう老婆がバスの往来に関して知らぬ存ぜぬの一点張りであったのには閉口したが、まあいい。

その家とは西川を挟んで対峙する小谷集落の婆ちゃんが、峠道を上り下りするバスを日常的に捉えているのだから、単なる物忘れとの解釈が妥当である。畑原の小集落を抜けた山道は二車線幅へと膨らみ、すっかり日焼けしたガードレールに導かれ、県道8号線に吸収されるようにして役目を終える。

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その交点はどこからどう見ても峠道の起終点で、本線である県道8号線はその昔から覇権を奪われた事がないように映る。しかしそうでない事は歴史が語っており、本線と支線の関係は現在とは真逆の立場にあった。

今でこそバスは鉄道と並走する形で県道8号線を行き来するが、その昔はこの交点より登坂を開始し、また新見方面からは難所を克服して安堵する着地点でもあった。そしてそれ以前に注目すべきはこの交点そのものが存在しなかった事だ。

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