教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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九の坂(11)

★★★★

九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。

 

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◆上市から苦坂まで極太線で描かれる明治32年の山道

九の坂は明地峠の代替路?!

某兵庫県議の号泣芸が半端ないとか、何度も吸うよ〜残さず吸うよ〜♪とか言いたい事は山ほどあると思うが、なにはともあれまずは左の図を御覧頂きたい。これは明治32年測量の上市付近を捉えた地形図である。

現在の上市は国道180号線と国道182号線が交わる交通の要衝となっているが、明治32年当時は九の坂を越える本筋と人力車の通行がやっとの狭隘路が派生するのみで、九の坂が唯一無二の生命線として描かれている。

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◆昭和7年に規格がようやく苦坂道に追い付くR180号筋

極太の二重線で表記されるのが、上市から峠を越えて畑原に至る山道のみで、当時の国道180号線筋はまだ細く頼りない二重線で描かれているに過ぎない。その両者が同等の規格を有するようになったのが、昭和初期であると歴代の地形図は語る。昭和7年補正の修正版で両者の規格に相違はない。

昭和2年の補正版ではまだ国道180号線筋が細い二重線で描かれている事から、道路規格に於いて国道180号線筋が九の坂に追い付いたのは昭和2年から同7年の間で、その間に何等かの改修が成されたと考えるのが自然だ。勿論その当時の明地峠は単なる馬車道でしかない。

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◆明治32年の畑原付近に県道8号線筋は影も形もない

ところが九の坂は大正9年の時点で乗合自動車の通行を許している。トンネルが開通するまで基本的に自動車の通行を許さなかった明地峠と、大正年間にバスが往来した九の坂の優劣は決定的である。

バスは県界を跨いだ先の黒坂を起終点としていたのだから、それは押しも押されもせぬ当界隈屈指の大動脈を意味し、今日を代表する陰陽連絡路に匹敵する当時の九の坂は、明地峠が遠く及ばぬ主要幹線路であった事を疑う余地はない。

九の坂>明地峠

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◆県道8号線筋が登場する昭和32年補正の地形図

その事実は峠道の着地点である畑原に真っ当な車道が接続しておらず、九の坂から足立に至るまで極太の二重線が一本道として描かれている点で揺るがない。今でこそ神代と畑原を当然の如し結ぶ県道8号線筋であるが、明治32年当時は人力車が通れるか否かの危うい道が存在するに止まる。

そこに真っ当な車道が形成されるのは、昭和32年の修正版が出るまで待たねばならない。そう、現在当たり前のように西川及び鉄道と並走する県道8号線筋は、畑原と神代の間が車両通行には不適な極めて御粗末な路であったのだ。その当時の状況について小谷の婆ちゃんは語る。

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◆九の坂が点線扱いとなる昭和45年補正の地形図

私は昭和3年生まれですけど、物心付いた時には前の道はありましたよ。今よりもずっと狭くて、車一台がやっと通れるほどの狭い道でした。その頃のバスは下道ではなく、山道を通って新見へ抜けていました。

小谷の集落は九の坂の山道が畑原に軟着陸する直前に位置し、婆ちゃん宅からは丁度山道筋が真正面を横切っており、それは今でこそ深い森に埋没しているが、当時は道筋が引っ掻き傷のようにはっきりと捉えられ、砂煙を巻き上げるトラックやバスが行き交うのが日常的な光景であったという。

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◆神代⇔上市間に於ける平成26年現在の勢力図

聞き取りの最中に娘さん(おばちゃん)も参入し、九の坂トンネルが完成するかなり前から、山道は使われなくなったと付け加えた。また昭和40年代に足立石灰の事務員をしていたというおばちゃんは、10トン車が川面峠を日常的に往来していた事実も詳らかとした。

二人の話を総括すると、昭和30年代には九の坂を越える車両は激減し、昭和40年代に入ると畑原⇔神代間が大型車の通行を許し、至極真っ当な車道として供用されていた姿が浮かび上がる。但し昭和20年代はまだ峠道に分があり、それは地形図のそれと符合する。

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◆新見⇔黒坂を結んだ東城自動車の開通記念写真

小谷の婆ちゃんの証言が加わった事で、いよいよ九の坂越えの路線バス伝説が現実味を帯びてきた。その第一期生が華々しく新見市街地を発つシーンが捉えられている。中町の旅館東屋で撮影された古写真がそれだ。

開業記念写真と銘打たれている事から、大正9年9月に撮影された新見⇔黒坂線の一番バスであろう。まだ乗合自動車とタクシーの区別が付かない大正年間に、乗客を乗せたシボレーやフォードが九の坂を、ほぼ毎日のように越えたのだ。

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