教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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九の坂(10)

★★★★

九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。

 

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新見市街の北端に於いて小川橋を渡り、上市村に入る、幾何もなくして上市市街を一貫して谷内より所謂九の坂の舊道と分かれ蜓蜓山腹を迂回して、標高四百米の峙を越して更に油野川の河谷畑原に下る。畑原より川の東岸に沿ひ足立に至り、西岸に渡り又まもなく東岸に渡り、釜・和忠をへて谷田峠の分水嶺を越し伯耆に入り、石見をすぎて黒坂に達す。新見より國境に至る五里二十九町。

新見−上市−畑原−足立−石見−黒坂

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新見より上市を経て九の坂の難所を越え、峠道の着地点となる畑原から足立を経て県界に至る22.8kmは、その当時唯一にして無二の分水嶺を跨ぐ車道で、その生命線を県道新見根雨線という。

縣道新見根雨線

その道筋は過去の地形図上にもくっきりはっきりと描かれており、好奇の眼差しに晒される事がほとんどの当山道が、実は主要幹線路として沿線住民の期待を一身に背負い、一時代を築いたスター候補生であった事実を疑う余地はない。

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今でこそ主役の座は神郷から足立を経て、県境を跨いだ直後に下石見を経て生山に至る経路が定着し、そのルートがその昔から本線であったかのように装っているが、車道が整備され始めた勃興期は、現状とは全く異なる経路を辿っていた。それを消化するにはかなりの時間を要する。

何せ現場は放置プレイを極めた惨状である。普通車が普通に通れないイレギュラーな道が、岡山県と鳥取県を結ぶ重要な陰陽連絡路のひとつで、現在の県道8号新見日南線の祖であると言っても、恐らく始めは誰もが受け入れ難いものがあり、当然拒否反応を起こすに違いない。

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しかし我々はその現実から目を背ける事は出来ない。本調査の初動時に路線バス往来という衝撃の事実を上市の古老より授かった訳だが、今となってはそれも九の坂がかつての主要幹線路であった事を裏付ける物証のひとつに過ぎない。公共交通機関の有無は、道路の格付けの際の指標と成り得る。

現況がどんなヘボ道でも公共交通機関が一時期でも通じたとあらば、それは一目置かねばならない存在となる。バス会社も営利目的の企業であるから、採算が取れない区間にバスは走らせない。バスを走らせるという事は一定の乗客がいた証で、九の坂越えのバスが収支トントン以上であった事を物語る。

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乗合自動車の試みは、新見自動車の新見・高梁間の営業を始め、其の後新見・東城間及び新見・黒坂間の営業開始を東城自動車会社に於て許可を得て開業せしは、大正九年九月たり。

大正9年にバスが九の坂を越えた

・新見−黒坂間(九里) 賃金四円 大正九年

・新見−上石見間(七里) 賃金参円六拾銭 大正十四年

・新見−足立間(三里) 賃金壹円六拾銭 大正十五年

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郡史は九の坂を越したバスの起源を、大正9年5月と謳っている。路線バスの勃興期に当る大正の半ばに、既に新見界隈でも乗合自動車が疾走していた事に驚きを隠せない。しかもその経路が泣く子も黙るラビリンス九の坂だから恐れ入る。現代人の感覚からすればそれは狂気の沙汰でしかない。

たいした離合箇所もないこの糞道に、バスを走らせる方もアレだが、許可する方もどうかしている。それにもまして乗車する客の気が知れない。並走する川面峠もバス酔い必至との証言を複数得ているが、九の坂はゲロバスに加え延々とバックオーライを強いられるゲロアタック的要素も多分に含んでいる。

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乗る方も命懸けだが、運ちゃんの神経戦も尋常ではない。いつ戦場へ行っても即戦力となれるだけの素養が日々の峠越えで鍛錬されていたのは間違いない。特筆すべきは開業当時のバスが県界を跨ぎ黒坂に達する中距離路線であった点だ。

何故九の坂&県界の谷田峠を跨いでまで、バスは新見と黒坂を結ぶ必要があったのか?その原因の一端として明地峠の名を挙げない訳にはいかない。いつまで経っても整備されない開かずの間に代わり、九の坂に白羽の矢が立ったのだ。

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