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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>九の坂 |
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九の坂(5) ★★★★ |
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九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書 この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。 |
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◆ この普通乗用車と歩行者の擦れ違いもままならない狭隘路を、かつて路線バスが行き来したという仰天発言は、道路交通史上稀にみるトンデモエピソードで、川面峠を夜行特急バスが往来したという逸話もかなりの驚きであったが、今やその伝説すら霞んで見える。 僕は一人現場で何度も何度も何度も何度も呟いた。マジかと。だってだってだよ、僕の知る九の坂は泣く子も黙る驚異のデンジャラスロードである。単車でもヒーヒー言いながら滝汗掻きつつ、やっとの思いで通り抜けが叶う難コースで、そこにバス云々を疑る余地など微塵もない。 |
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◆ 嗚呼それなのに、古老はあっさりと言ってのけた。九の坂に公共交通機関が通じていたのだと。しかし峠の直前に至っても僕はまだ古老の証言を消化出来ずにいた。そこに至る過程がバスの通行を全くイメージさせない完全一車線の狭隘山道で、道中にはたいした離合箇所も見当たらない。 これで古老の証言を素直に受け止められる方がどうかしている。峠の新見側は今も昔も必要最低限の整備が成されているから、百歩譲って何とかバスの通行シーンを想像する事が出来たとしても、東城側の惨状を思うとこの峠道と路線バスを結び付ける事にはかなりの無理がある。 |
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◆ 水と油とまでは言わないが、九の坂の現況と路線バスのギャップが激し過ぎて、もう何が何だか訳が分からない。そこへ追い打ちをかけるのが頂上の擁壁で、切り通しの両脇を擁護する石垣は誰がどう見てもランダムに積み上げたとしか思えない原始的な構造で、この存在が僕をロープ際へと追い詰めた。 切り通しの石垣は峠道に設けられた擁壁の象徴と言っても過言ではない。その重要な道路付帯設備が適当なサイズの石を重ねただけの御粗末な構造である事に驚きを隠せない。この隙間だらけの石垣をどう捉えればよいのだろうか?排水性の良さと言えば聞こえはいいが、こいつは完璧な駄作ジャマイカ? |
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◆ この山道が一般車の通行を考慮しない林道上がりであれば、やっつけ仕事でそうなってしまったという解釈が出来なくもないが、愛川欽也氏のはい消えた!が瞬時に想起されるくらい今やその可能性はゼロに近い。氏に続いて麻央嬢までもがゼ〜ロ〜と駄目出しするほど林道とは程遠い。 何せ現場は路線バスが往来した実績のある山道で、一般車両の通行を意識しない林道とは訳が違う。近年までバスが走っていたとすれば林道から県道への昇格というパターンも有り得るが、バスが走っていたのは昭和25年頃である。従って昭和後期に乱立する林道群とは一線を画している。 |
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◆ 戦後すぐにバスが走っていたという事は、それ以前からこの峠道はバスを運行するだけの背景なり実績がある訳で、九の坂は僕等が思っているほど単純な逝かれ道ではないのかも知れない。終戦から間もない時期にバスが峠を越していたという事は、普通に考えてそれ以前から走っていたとみるのが妥当だ。 となると切り通しの石垣は、かなり古い時代のものと思って間違いない。石はひとつとして同じ形状のものがなく、誤解を恐れずに申せば適当な石を積み上げただけの、まるで素人集団が組み上げたなんちゃって石垣と疑いたくなるほどの粗末な造りだ。僕の経験上あれは間違っても昭和の工法ではない。 |
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◆ 明治時代でも切石を用いた立派な石垣がある点を踏まえれば、江戸時代に拵えたのではないかと疑りたくもなるが、そうでない事は現場を見ればよく分かる。鋭角でV字に掘り割られたサミットは、歩行者の為に拓かれたのではなく、あくまでも車両の通行を意識して開削されたものだ。 だとすれば九の坂に車道が成立したのはどんなに早くても元号が明治に代わってからで、それ以前は車両による峠越えを禁止する幕府の命に従い、移動手段は古老が徒歩で越したという最短コースを使っていたと推察される。国道トンネル脇にあったという小径、そいつはほぼ間違いなく九の坂の江戸道だ。 |
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◆ 上市の古老がそれを意識していたか否かは定かでないが、氏が自身の足で越していたのは人畜のみが有効の江戸道で、それに代わって登場したのが西日本随一の呼び声が高いデンジャラスロードと称される当山道だ。 この峠道は今や単なる面白道を凌駕している。切り通しにみる原始的な構造の石垣は、明治初期のそれも黎明期と呼ばれるかなり早い時期に設置されたものである可能性が高い。具体的には明治一桁というのも無きにしも非ずだ。 九の坂6へ進む 九の坂4へ戻る |