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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>川面峠 |
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川面峠(9) ★★★ |
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川面峠(こうもとう)の取扱説明書 川面峠、全く聞き慣れない峠だ。そりゃそうだ、我らがバイブルツーリングマップルに一度も掲載された例がなく、市販の地図の多くが未掲載であるから、般ピーは基本的にその存在を知る術がないのだから。僕も御多聞に漏れずつい最近までその存在には気付かずにいた。正確を期せば読者からの情報により既知ではあったが、今にしてみればそれは迷宮の入口に過ぎない。舞台となるのは広島県と鳥取県に接する新見市で、歴史道では未着手の空白エリアである。何故今日の今日まで手を付けなかったのか?それは新見最大の謎である九の坂が絡んでいるからだ。当時の僕では手に負えなかったし、強引に着手すれば食い散らかして終わったであろう。しかし今は違う。江戸道以上明治道未満の暫定車道の発掘に尽力し、数多の実績を積み重ね機は熟した。これより川面峠&九の坂の二部構成で新見市街最大の障壁に挑むが、広島・鳥取・島根の各県が絡む壮大な物語が、岡山県の殻を破る突破口となる事を付け加えておかねばなるまい。 |
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◆進行方向左手の谷底にJR伯備線の架線を捉える かつて木炭車が自力で登坂出来たとの証言通り、東城側も非常に緩やかな勾配で山道は続いている。峠道のほぼ全線がひたすら蛇行を続けるトラバース区間で、見通しが悪い上に目立った離合箇所も無い為、この山道一本で賄っていた時代はどうやって行き交う車両を捌いていたのか不思議でならない。 苦ヶ坂隧道を抜けた後も普通車同士の交換が可能な場所は存在するが、けしてまともな待避所がある訳ではない。そこに大型車が現れたら一溜まりも無い訳で、このような僻地にもモータリゼーションの波が押し寄せる昭和50年代を待たずして風穴が開かれたのも頷ける。 |
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◆この踏切が峠道の事実上の着地点となる やがて左手の眼下に架線を捉え、峠区間の終点が近い事を知る。峠の数軒を最後にこの踏み切りまで人家は皆無で、その間に茶屋等の痕跡らしき更地はどこにも見当たらなかった。当然その間にバス停は設置されておらず、布原の住民は道端で手を挙げればバスに乗れたのだという。 峠区間で確認出来る停留所は川面峠唯一箇所で、実際問題として集落が認められるのは鞍部の直前の数戸のみで、あとはひたすら急崖に阻まれた樹林地帯を進むのみである。そこはまるで四国の三桁国道と見間違うほどの様相を呈し、R197やR439といった全国区の酷道に匹敵する凄味がある。 |
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◆踏切直後に鉄道は穴蔵へ潜り山道は渓谷沿いを行く それどころか私的にはヨサクやイクナを超越しているように思えてならない。何故なら川面峠は路線バスが往来したという実績があるからだ。しかも長距離夜行特急バスが走っていたというのだから、そんじょそこらの酷道とは完全に一線を画している。川面峠は単なる酷道ではないのだ。 交通史的には公共交通機関が通じていたという実績により、他路線より頭ひとつ抜きん出ている感があるが、川面峠は道路史的にも大変興味深い路線である。というのも山道の起源が明治15年開通の馬車道に遡るからだ。当然その時代の主役は馬車であり人力車である。 |
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◆渓谷沿いの急崖路は普通車と単車の擦れ違いも厳しい 現在は鉄道が並走している事から利用価値のない路線に映るが、その歴史を紐解けばそうでない事は誰でも理解出来る。新見に陸蒸気の警笛が轟いたのは昭和3年の秋と遅い。岡山方面から延伸していた伯備南線が、昭和になってようやく新見に到達したのだ。 当然それ以前の新見界隈では、移動手段として乗合自動車や舟を頼るより他ない。この先に待つ備中神代駅の開業は昭和5年と更に遅く、その間は当山道を行き交う車両が唯一の公共交通機関であった。となると先駆的存在として川面峠を越す乗合自動車の姿が浮かび上がる。 |
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◆一時代前の道によくあるパターンの連続する踏切 高梁界隈に乗合自動車が出現したのは大正半ばであるから、その延長線上にある新見界隈で乗合自動車が疾走したのも同じ頃と考えられ、遅くとも大正の晩年には走っていたと思われる。というのも当山道は大正4年に改修されているからだ。勿論その動機は自動車を通さんが為だ。 鉄道誘致合戦が最も盛んであった明治年間に、新見界隈はその恩恵に授かる事も出来なければ、いつ来るかさえ分からない鉄道に翻弄されていた。高梁駅の開業が大正の晩年である事を踏まえれば、鉄道とは縁が無い土地なのだと地元住民が諦めかけていたとても何等不思議でない。 |
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◆二度目の踏切を渡り終えると道幅は一気に拡がる 明治時代に日の目を見なかったのだから、将来的に鉄道が通じるとしても、それがいつになるのかは分からない。だったら道路整備に力を入れ自動車に委ねる、或いは鉄道の繋ぎ役として山道を越す車輌に期待をしたとしてもおかしくはない。だとすれば大正4年の早期大改修も頷ける。 今でこそ鉄道があるのに何で山越えの県道が必要なん?という疑問が浮かぶが、川面峠を越す車道は明治15年から存在し、大正4年には自動車通行に対応する為に改修され、峠の直下を汽車が駆け抜ける昭和5年の秋までは、唯一無二の生命線として必要不可欠な存在であったのだ。 |
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◆昭和40年代で時が止ったかのような備中神代駅前 当然そこには乗合馬車なり乗合自動車の姿が想像されるが、布原の古老曰く川面峠にバスが走り出したのは昭和26年で、それ以前はバスは走っていなかったという。妹の通学時からバスで通えるようになったから間違いないと。 鉄道が通じない昭和5年の秋までは、峠道を行き交う何等かの代替交通があったのは間違いないであろうが、問題はその後だ。峠越えのバスは昭和26年開設ではない。昭和26年再開ではないかと僕は睨んでいる。 川面峠10へ進む 川面峠8へ戻る |