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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>川面峠 |
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川面峠(8) ★★★ |
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川面峠(こうもとう)の取扱説明書 川面峠、全く聞き慣れない峠だ。そりゃそうだ、我らがバイブルツーリングマップルに一度も掲載された例がなく、市販の地図の多くが未掲載であるから、般ピーは基本的にその存在を知る術がないのだから。僕も御多聞に漏れずつい最近までその存在には気付かずにいた。正確を期せば読者からの情報により既知ではあったが、今にしてみればそれは迷宮の入口に過ぎない。舞台となるのは広島県と鳥取県に接する新見市で、歴史道では未着手の空白エリアである。何故今日の今日まで手を付けなかったのか?それは新見最大の謎である九の坂が絡んでいるからだ。当時の僕では手に負えなかったし、強引に着手すれば食い散らかして終わったであろう。しかし今は違う。江戸道以上明治道未満の暫定車道の発掘に尽力し、数多の実績を積み重ね機は熟した。これより川面峠&九の坂の二部構成で新見市街最大の障壁に挑むが、広島・鳥取・島根の各県が絡む壮大な物語が、岡山県の殻を破る突破口となる事を付け加えておかねばなるまい。 |
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◆ヘアピンカーブ直後の狭隘区に苔生した石垣を捉える 布原地区へ通じる支線との交点から500m前後進行した地点に記念碑が建ち、そこから程なくして曲率半径18m程度のヘアピンカーブを迎える。そこは当山道では数少ない大型車同士の擦れ違いを許す幅広道で、日常的に峠を行き交うドライバーにとってはオアシスのような場所だ。 その直後は苔生した石垣に擁護される狭隘区となるが、撮影中に一台のセダンがやってきて狭い空間を強引に駆け抜けていった。その際の左右の隙間は僅かに握り拳大で、大型車と単車及び自転車の擦れ違いが叶わなかったのは明らかで、少なくとも当山道にはそのような狭隘区が複数認められる。 |
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◆石垣の狭隘区を過ぎると高さ制限標識を捉える 基礎が明治の馬車道と言ってしまえばそれまでだが、後年拡張したのかしないのかがはっきりとしない微妙な区間が少なくない。大正年間に改修が施されているので、開削当時の状況を保っている箇所が現存するとは考え辛いが、それでも突貫で間に合わせたようなデンジャラス区間が目立つ。 よくもまあこれ一本で凌いできたものと感心せずにはいられないが、その究極とも言える難所が唐突に僕の目の前に現れた。かなり前から心構えが出来るように事前に標識のひとつでもあれば別だが、高さ制限標識が掲げられているのは問題の箇所の直前で、地下道への入口は一瞬にして現れた。 |
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◆標識の直後にぽっかりと口を開ける素掘りのトンネル 素掘りの隧道である。現場は右斜め60度の角度で折れ曲がっており、今まで右手にあった斜面の一部を刳り抜いて、山襞の一部をショートカットする形で設けられている。本来はカーテン状の襞を丁寧になぞるのが筋であるが、そこだけは車道として不適と判断されたのかも知れない。 旧道の有無を確認するために洞門脇の斜面へ徒歩での進入を試みたが、それらしき小径は見当たらず、四肢を駆使しないと前進が危ぶまれる急崖が待つのみで、旧車道の存在は無しとの判断に至った。碑文には当山道が明治15年に拓かれと刷られている。となるとこれは明治隧道という事になる。 |
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◆モルタルで薄化粧された素掘隧道は大正期の拡張版 川面峠に明治隧道 山襞をなぞる旧車道の痕跡でもあれば話は別だが、そうでない限りこの穴は明治の洞門との解釈が正しい。勿論現在の規格は大正の改修で一回り大きくなったものであるが、山道同様穴そのものは明治産である事を疑う余地はない。 読者諸兄も御存知のように岡山県内の道路隧道は他県に比し極端に少ない。起伏の緩いなだらかな地形がそうさせたのであろうが、現在はトンネルであっても開削当初は鞍部を直に跨ぐという事例は枚挙に暇がない。 |
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◆旧道が認められないので明治隧道である事はほぼ確実 事実この穴も頂上にある訳ではなく、あくまでも東城側の中間に位置する副洞に過ぎない。しかしながら明治隧道を追及する者としてこの洞門は外せない。何故なら新トンネルを設ける事なく明治の洞門をそのまま流用しているからだ。開削当初とスペックは異なるが、こいつは紛れもない明治隧道である。 その竣工年は山道が成立する明治15年とみるのが妥当で、隧道王国でない岡山県下では異例の早期開削とみて間違いない。道路トンネル大鑑では竣工年が不明とされているが、旧車道の存在が確認出来ない以上、山道の成立時と考えるのが自然だ。その隧道名を苦ヶ坂という。 |
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◆昭和チックな古風な車止めと完成度の高い石垣 苦ヶ坂隧道/明治15年竣工 延長25m 幅員3.5m 限界高4.0m 大鑑のスペックは昭和43年現在のものであるから、大正の改修で拡げられたものであり、我々が拝める現在との相違点は、モルタルで薄化粧したくらいのものだ。その壁面は凹凸の激しい歪な形状で、昭和になっても大改修を受けなかった事実を物語る。素掘り隧道であるから初期の原型を留めているという見方も出来なくはないが、一時代前は一回りも二回りも狭かったであろう事は想像に難くない。 |
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◆国道時代の置き土産と思われる一時代前の警戒標識 ところで隧道名とされた苦ヶ坂に僕は心当たりがあった。記念碑の背後をひょろひょろと伝う人畜のみが有効と思われる山道が認められ、その入口に牧水街道苦が坂峠登り口と記された木板が掲げられているのを見逃さなかった。 木板は川面峠とは異なる別の峠道の存在を示唆するが、何故川面峠を越す道路トンネルに苦ヶ坂の名を用いたのであろうか?九の坂と川面峠と苦ヶ坂、唯でさえややこしい関係がより複雑に絡み合う事を、この時の僕はまだ何も知らずにいた。 川面峠9へ進む 川面峠7へ戻る |