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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>川面峠 |
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川面峠(6) ★★★ |
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川面峠(こうもとう)の取扱説明書 川面峠、全く聞き慣れない峠だ。そりゃそうだ、我らがバイブルツーリングマップルに一度も掲載された例がなく、市販の地図の多くが未掲載であるから、般ピーは基本的にその存在を知る術がないのだから。僕も御多聞に漏れずつい最近までその存在には気付かずにいた。正確を期せば読者からの情報により既知ではあったが、今にしてみればそれは迷宮の入口に過ぎない。舞台となるのは広島県と鳥取県に接する新見市で、歴史道では未着手の空白エリアである。何故今日の今日まで手を付けなかったのか?それは新見最大の謎である九の坂が絡んでいるからだ。当時の僕では手に負えなかったし、強引に着手すれば食い散らかして終わったであろう。しかし今は違う。江戸道以上明治道未満の暫定車道の発掘に尽力し、数多の実績を積み重ね機は熟した。これより川面峠&九の坂の二部構成で新見市街最大の障壁に挑むが、広島・鳥取・島根の各県が絡む壮大な物語が、岡山県の殻を破る突破口となる事を付け加えておかねばなるまい。 |
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◆昭和の交通史を語り尽くす布原で生まれ育った古老 お前さんが今降りて来た道は最近になって付いたもので、ちょっと前までは上の道まで歩いて登っておった。イタチ道言うての、獣道がひょろひょろと続いておる。そこを通ってバス道に出るんじゃ。わしの妹が小学校に上がった時に上の道をバスが通りだして、妹は学校までバスで通ったが、わしらの頃はあの窪み(川面峠)目掛けて真っ直ぐに上り下りしてたんじゃ。ここら辺の子供は皆毎日峠を上り下りしておったから、足腰は結構鍛えられた。 |
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◆一両編成にしか対応していない布原駅のホーム 山道の二又より左に枝分かれする道を一目散に駆け下りた僕は、畑仕事に精を出す古老を見付けるや否や間髪入れずに声を掛けた。すると待ってましたとばかりに古老は峠道に関するエピソードを粛々と語り始めた。まるで後世に伝えよと言わんばかりの勢いで。 何はともあれまずは谷底の集落にある鉄道の駅舎を御覧頂こう。ホームは上下線のそれぞれに設置されており、一見すると使い勝手は良いように思われる。しかしホームの長さを意識した時、初めてこの布原駅がトンデモ駅である事を知る。なんとこの駅の許容車両はたったの1両なんである。 |
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◆布原へ通じる支線との交点以後も山道は横這いに進む 因みに古老への聞き取りを行っている最中に、数え切れないほどの列車が通り過ぎていったが、一両編成の列車は唯のひとつも認められない。それどころか特急列車が忙しく行き交い、集落そのものは静寂に包まれているのに、ガタンゴトンと列車の走行音が絶えず渓谷に轟き、何だか落ち着かない。 見渡すと駅の周辺には5軒ほどの人家があるが、いつ集落そのものが消滅してもおかしくない状況にある。若い者は一人も居ないとの事で、平均年齢70超えの過疎集落は、残念ながらそう遠くない将来無人エリアとなる可能性が大だ。しかし最盛期は駅前を中心に13軒ほどの人家があったという。 |
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◆大型車同士の擦れ違いを許す貴重な離合箇所 何故鉄道の駅舎があるのに人口が増えなかったのか、また駅があるのに何故頭上の山道へと赴きバスに乗る必要があったのか、その点についての古老の回答はこうだ。鉄道はその昔から通じていたが駅が設置されておらず、集落の人間は長らく鉄道の恩恵に授かれなかったという。 布原駅の前身は列車が交換する信号所で、鉄道の官舎に7人程のぽっぽやが常駐していたという。彼等は日常的に汽車で移動していたが、一般の村人は鉄道を利用する事が出来なかった。従って信号所時代は頭上の山道を行き交うバスを利用する以外に移動手段は徒歩しかなかったのだ。 |
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◆大型車一台の通行がやっとの狭隘路が基本的な幅員 古老は語る、鉄道の開業と同時に駅が設置されていれば、今とは違うまともな集落が形成されていたであろうと。確かにそれは一理ある。何故なら布原駅は山一つ隔ててはいるけれど、中国エリア山間部随一の主要駅である新見駅に隣接しており、利便性は頗る良いからだ。 布原と新見は直線距離にして僅か3kmと近い。事実SL時代は鉄道トンネルを伝って行き来する村人もいたという。しかしディーゼル特急の登場で事態は一変する。汽車のスピードUPに伴いトンネル内での人身事故が頻発したのだ。布原信号所が布原駅となったのは国鉄からJRに衣替えした時である。 |
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◆急崖の真只中を行く山道に取り付く島は見当たらない 表向きは昭和62年まで布原の住民は鉄道の恩恵に授かれなかった事になっているが、実はそうではないと古老は続ける。鉄道官舎に常駐するぽっぽやが乗降する列車に限り、同乗が認められていたという。利用可能な便数に制限はあるが、国鉄に便宜を図ってもらえたのだという。 物理的に汽車への便乗は可能ではあったが自由度の無さは如何ともし難く、布原地区の人々は東京五輪後も相変わらずイタチ道を伝って山道を駆け上がり、バスで新見や東城方面に出ていたのだという。かつて布原地区や峠付近に住まう者の生命線であったその路線バスも廃止されて久しい。 |
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◆進行方向右手の斜面に重厚な石碑を捉える 峠のおいちゃんは新旧道の切り替えに合わせてバスの経路も変更されたと言っていたから、九の坂トンネルの銘板にあるように昭和47年には当山道からバスは姿を消した事になる。ここをボンバスが往来していたのは今から40年も前の事だ。 バスは新見と東城を結んでおったが、それだけじゃない。足立に行くバスもあった。それと岡山と出雲を結ぶ夜行特急バスもこの上を通っていた。 川面峠7へ進む 川面峠5へ戻る |