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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(21) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆峠のイロハを教えてくれた頂上付近に住まう老夫婦 あの家(三差路の一軒屋)は店を畳んで随分経つけど、トンネルが出来るまで店をやっていた。昔はバス停もあったし、この辺りには自販機が無いから、立ち寄る者も結構いた。高校の頃はここからボンネットバスで通った。 峠の昔話が後先になってしまうが、先に往年の逸話を語ってくれたのは息子さんであった。息子と言っても定年間近のおっさんであるが、彼は高校時代に多和山停留所からバスに乗り込み、下界の高校へ通ったという。そして通学の足が車掌付きのボンネットバスであったと主張する。 |
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◆トンネル開通後もしばらくは狭い土道だったという旧旧道 多和山越えの路線バスが晩年は箱バスであったにせよ、往時はボンネットバスであった事実は僕の想像力を大いに掻き立てた。峠道が舗装されたのは昭和40年代末というから、砂利道、ボンバス、茶店と、それは映画ALWAYS三丁目の夕日に象徴される、まさに昭和30年代そのものの情景である。 詳しい事は親父に聞いてくれと言われ、戦争経験者である実の父にバトンが渡された。往年の多和山峠をボンバスが越え、新道の成立まで公共交通機関が通じていた事は分かった。問題はその起源と過程である。勿論僕が喉から手が出るほど欲しているのは後者である。 |
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◆山肌を直登する江戸道の勾配はそれなりに厳しい この界隈に乗合自動車が出現したのは大正7、8年と早い。これは県下でも二番目の早さと謳われ、山間部である事を加味すれば異例の導入事例であると町史は強調する。但し難所は除くという条件付きである事実を付け加えておかねばなるまい。自動車による大正半ばの多和山越えは不成立であったのだ。 現に大正14年の時点で乗合自動車は、多和山峠を避けるようにして落合と西方を結んでいる。その系統を精査すべく僕は県道78号線へと舵を切る。多和山新道の峠下にあたる横山の交点から僅か500m程で市界を迎えるが、そこは至って平坦な横這いの道が続いている。 |
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◆後付けか当時のものかは定かでないが待避所がある 真庭市と高梁市を隔てる市界から1km少々進んだ所に、ママチャリで座ったまま越せる程の小さな起伏がある。後になって気付くのだが、それが西方方面に存在する唯一の難所で、多和山峠と比較するのもおこがましい盛り上がりに、多和山越えか否かの選択の余地がなかったのは明明白白である。 起伏を越えた先に本村という小集落が待ち構え、そこで県道78号線は真北に舵を切る。ドライバーが青看を意識せずに道なりに進んだ場合、自動的に県道310号線へと雪崩れ込む。その線形を見る限り大正年間は多和山峠を避けて西方方面へ向かうのが本筋であったと解釈せざるを得ない。 |
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◆頂上の資材置き場が近付くにつれ勾配はきつくなる 本村と方谷駅の間は緩やかな下り坂と横這いの繰り返しで、多和山峠経由に比し若干の距離損と引き換えに、安全で快適な運行が保障されるのだ。これは運営者側にとっても利用者側にとっても重要な事案で、大正14年時に峠越えを避けた椿氏の判断は賢明であったと言える。 氏が刻んだ足跡は今現在も備北バスによって踏襲され、県道310号線筋を伝い路線バスが往来している。その終点は追田下で市界の手前で寸止めされている。多和山トンネル経由の呰部線と干渉するのがその理由で、今でこそ高梁との繋がりが密な西方も、かつては落合と密接に関わっていた。 |
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◆押し或いは押しと引きの両方が必要と思われる激坂 大正年間は落合と西方を結んでいた路線バスは、昭和3年の伯備南線の延伸開業に伴い方谷へと延長され、作備線と伯備線を結ぶ重要な系統となるも、大正の晩年に中津井町長の肝煎りで多和山越えの明治新道が大幅に梃入れされ、昭和初期には落合発方谷行きと高梁行きの二系統が設定された。 問題はここからだ。戦争の激化に伴いガソリンの供給が困難となり、バス会社の統廃合が進むと同時に減便や廃止を余儀なくされ、残された系統も木炭車への変更が義務付けられる。そうなると多和山峠経由が真っ先に脱落し、西方経由一本で凌いだと考えられ、少なくとも僕はそう信じて疑わなかった。 |
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◆切り通しの直前でぶつかる江戸道と明治新道 しかしそれに異を唱える者がいた。他でもない峠の生き証人である。氏は常識的な西方経由一本説を真っ向から否定し、戦時中に起こった在りのままの状況を僕に告白した。 戦時中は木炭バスが峠を越しおった。乗客が満員でも峠のどちら側も人が降りて押す必要はなかった。 木炭バスが自力で峠を越えた! 多和山峠22へ進む 多和山峠20へ戻る |