教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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多和山峠(20)

★★★

多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書

瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。

 

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◆現国道筋に繋がる市道との交点より頂上を望む

町史に“明治の中末年は脚夫の肩で”とあるように、呰部局と塩坪局の約三里の道程を郵便脚夫が配達物を担いで越していた。明治20年台は江戸道を伝っているから当然としても、新道が竣工した後もしばらくは脚夫の肩に頼っていたものと文面からは読み取れる。

新道が成立しても尚脚夫の足を頼っていたのは何故か?それは恐らく江戸道と明治道の距離が我々が思っている以上に乖離している為だ。見てくれ、V字の窪みまでほぼ直登に等しい線形で駆け上がる江戸道を。それに対し明治道は左斜面の中腹付近の山襞を丁寧に縫い繋ぎ、のらりくらりと伝っている。

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◆旧旧道筋全体が大規模農場と化している

明治半ばの郵便物は手紙や電報等の軽量物が主で、郵便小包の取扱いが開始されたのは明治25年である。多和山新道の成立時に郵便局は重量物を取り扱っていたが、それでも脚夫の肩に頼っていたのは、重量物のほとんどを民間業者が請け負っていた事と、江戸道の優位性にある。

郵便局が郵便小包の取扱を開始したところで、客が直ちにそれを利用した訳ではない。重量物は民間業者で軽量物は郵便局と棲み分けが出来ていたから、20年近く続く慣習に従ってすぐに鞍替えせず、小包は徐々に民営から官営にシフトしていったと考えるのが妥当である。

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◆牧草地帯の真只中を直登する直線道路

明治年間の郵便は運搬物のほとんどが紙媒体であるから、江戸時代の飛脚宛らの様相で峠道を行き来していたに違いない。その足跡は前時代から引き継がれた江戸道に刻まれ、逓送は明治道に比し圧倒的に距離の短い江戸道を以て行われた。それがこの直線道路である。

切り通しの先にすぐに下りになる道があろう、それが一番古い道じゃ。今は舗装されとるが、トンネルが出来た後も、しばらくは狭い土道だった。歩いて越すなら昔の道の方が早いから、昭和の終わり頃まで歩く者がおった。

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◆明治20年代は旧旧道筋に二軒の茶店があった

歩行者は昭和の晩年まで江戸道を直登

な・な・な・なんと江戸道は明治新道が成立した後も郵便脚夫が伝っていたどころか、昭和後期になっても依然としてこの界隈の住人に利用されていたのだ。今でも峠に住まう生き証人がそう言うのだから間違いない。

路の一部は拡張され今では全線舗装化が成されているが、峠道がトンネルに切り替わった後も土道で、その頃まで歩行者は江戸道を伝っていたというから、時代が平成になる直前まで旧旧道は現役路線であったのは間違いない。

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◆中車や人力車が牛馬の前引きで越えた江戸道

一度は藪に没し最近になって息を吹き返したのかと思いきや、旧旧道は江戸年間から今日現在に至るまで、一度も息絶えた経験の無い現役バリバリの路線である事が明らかとなった。牧草地の真只中を貫く直線道路は、一見すると単なる後付けの市道のように映る。

しかしその存在は400年超の長きに亘り供用される歴史道そのものなのだ。古くは大名行列の一行が行き来する官道として利用され、明治新道が成立した後も近道として利用者が絶えなかった。その流れは昭和の晩年まで引き継がれ、今はこうして真っ当な道路へと衣替えしている。

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◆多少の歪みはあるが基本的は直線の一本道

実際の線形は若干の曲線を含むものの、大局的にはほぼ完璧な直線道路である。無駄に膨らむ明治道を嫌って徒歩組が最短コースをチョイスするのも頷ける。トンネルが出来る以前は多和山峠に迂回路は存在しなかったから、尚更江戸道の優位性が際立つ。

現代人はバスに乗り遅れたら徒歩移動など一考の余地もないが、昭和30〜40年代はバスに乗れなければ歩くというのが極一般的な選択肢で、歩く事が日常的な行動パターンであったから、わざわざ遠回りをするバスにお金を落とすよりも、最初から歩いた方がマシと考える者もいたはずだ。

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◆牧草地帯を抜けると視野は狭まり勾配もきつくなる

この辺りの者は麓の学校まで通うのが当たり前で、歩いて峠を越えるのは普通の事じゃ。今じゃ人も車も通らんけど、トンネルが出来る前は結構賑わっておった。ここ(峠)にはバス停があって(停留所名が)多和山だった。そこ(三差路)に商店があって生活雑貨などを売っていた。わしが子供の頃は茶店をしていて、乢越えする者が一服していた。

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