教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>旧道>岡山>多和山峠

多和山峠(19)

★★★

多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書

瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。

 

DSC02362.jpg

◆真庭側旧国道上にある明治新道と江戸道の分岐点

乗合自動車事業を開始早々順風満帆という話を、これまでの所僕は聞いた例がない。ここ多和山峠も御多聞に漏れず、始めは苦戦したであろう事は容易に想像が付く。黒字化するまでは棘の道であったに違いない。ただこの峠道には純粋な同業他社がいなかっただけマシである。

よくあるパターンは乗合馬車や人力車の妨害だ。旧勢力の彼等は既得権を奪われまいとして頑なに道を譲らない。当時の山道は完全一車線であるから、前にチンタラ車両がいた場合、相手が気を遣って避けてくれない限り延々と後ろを付いて廻る事になる。そうなると速達が売りの自動車は性能を持て余す。

DSC02364.jpg

◆江戸道の法面には明治新道の石垣が認められる

ポテンシャルを十分に発揮出来ない自動車など単なる鉄の塊に過ぎない。そうやって乗合自動車が各地で勃興した黎明期には、開業しては廃業を余儀なくされの繰り返しで、軌道に乗った事業者はほんの一握りである。幸いな事に多和山峠には乗合馬車は疾走しなかった。

当山道に関する資料で乗合馬車の運行を示すものは見当たらない。これは乗合自動車が大正の晩年まで不成立であった事実を裏付けるもので、多和山峠に公共交通機関が成立し得ぬほどの脆弱な路であったのも然る事ながら、大正中期の時点でまだ高梁駅が開業していなかった点も無視出来ない。

DSC02363.jpg

◆沢筋を伝う江戸道と明治道の高低差は拡大の一途

伯備南線の備中高梁駅が開業したのは大正15年の初夏で、昭和の足音が聞こえ始めた頃にようやく鉄道が開業した。明治年間に列島各地で主要鉄道の大方が敷設された事を思えば、伯備線は遅咲きの部類に属す。従って公共交通機関を早急に確立しようにも、出来なかったという背景がある。

だからと言ってただ手を拱いていた訳ではなく、大正半ばに出現した乗合自動車の運用状況を精査しつつ、近い将来新見まで延伸するであろう鉄道の進捗状況を踏まえ、来る日に備え着々と準備を進めていたのは間違いない。峠道にバラスを撒き待避所を設ける等の事前準備に余念がなかった。

DSC02368.jpg

◆一昔前は木橋か石橋が架かっていたと思われる短橋梁

明治二十五、六年頃までの高梁参度は、全部馬であった。中車・牛車は明治三十年頃から大正五年頃まで続いた。屹山の上り坂を清常あたりの牛かけ、又は馬ひき専業に頼んで、引っ張らせたものだが、馬車で高梁を往復するものが出て来るようになり、中車・牛車は追々に姿を消した。昭和初年から三輪車、大型小型トラックが登場して、馬車は順次駆逐された。中津井をバスが運行しかけたのは昭和初年からで、日に月に利用者が増してきている。

DSC02369.jpg

◆カーブがほとんどの明治道に比し江戸道は大方が直線

中津井の交通遍歴からも大正15年に乗合自動車が初めて峠を越えた様子が窺える。中津井の高梁参度で多和山峠越え以外のルートは基本的に考えられない。明治半ばの峠越えは全て馬の背に頼っていたとあるから、その頃はまだ旧態依然とした江戸道を頼っていたのだろう。

それが明治30年代に入ると中車や牛車が登場する。明治新道の成立により車両の行き来が叶ったのだ。但し新道が出来たからと云って、全ての車両がすんなりと通行出来た訳ではない。起伏の少ない平地では人力で何とかなっても、峠区間は牛や馬に牽引してもらわねば越せなかったのだ。

DSC02370.jpg

◆薄暗い沢筋を抜けると高原風の開けた場所へ抜け出る

それが竣工時の明治新道クオリティであり、結果屹山名物馬曳き自転車を世に送り出している。明治の中車と牛車に代わって大正時代は馬車が主役を担った。いずれにしても明治・大正を通じて多和山峠越えは、全ての車両が畜力に頼らねば越せぬほどの難所であったといえる。

それが昭和初年にバスやトラックが登場し、馬車が駆逐されたとあるから、やはり元号が大正から昭和に代わる転換期に山道が改修され、昭和初年即ち大正15年になってようやく自動車に対応した道路が日の目を見たのだ。それを裏付ける興味深いエピソードがある。

DSC02464.jpg

◆大正年間に多和山峠を行き来した赤塗りの郵便逓送車

明治の中末年は脚夫の肩で、いつ見ても忙しそうに走っていた。大正に入って郵便物が増加したのか、赤塗りの箱をつけたていそう車を脚夫が引っ張って走る。昭和に入ってはバス便を利用することになったので、この珍風景も姿を消した。

人力逓送車が多和山峠を越えた!

なんと屹山名物はひとつではなかった。人力逓送車なる赤塗りの荷車が、大正年間の山道を行き来していたのだ。

多和山峠20へ進む

多和山峠18へ戻る

トップ>多和山峠に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧