教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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多和山峠(18)

★★★

多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書

瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。

 

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◆意匠に凝った昭和11年竣工の西方橋

自転車鼻曳き馬

かつて多和山峠には峠の上りのみ自転車を牽引する自転車鼻曳き業なる専門業者が存在した。1回の利用でMAXは4台で、馬主は銜え煙草でパカパカとチャリンコ軍団を引っ張り上げた。それは昭和5年まで続いたという。

自転車鼻曳き馬が主戦場としたルートは、数百年の長きに亘り供用された江戸道ではなく、近代になって成立した馬車道、即ち明治新道であり、森本画伯の絵はそれを以てしても峠越えは容易でなかった当時の峠の難易度を示唆する。

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◆県道310号線と県道169号線の交点

町史は清常に専門業者がいたとし、わざわざ南行客と言っている事からも、真庭側の急峻さが際立っていた事が想像され、自転車鼻曳き業が成立したのはあくまでも真庭側のみであって、高梁側では成立し得なかったと推察され、それは現行ルートをみても頷ける。

極端な表現をすれば多和山峠はへの字型をしており、短い距離で一気に標高を稼ぐ、即ち等高線が密集する急崖地形にあり、そこに迂回路を設けたのが明治新道である。そこは荷馬車を通せるように勾配を意識した線形になっているはずだが、馬車は対応出来ても自動車には不適であった。

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◆県道320号線との交点にある花木橋は昭和11年竣工

馬車が通れるのだから自動車も通行出来そうなものだが、実際問題として大正半ばに於いてそれは物理的に極めて困難な非現実的な夢物語であった。恐らく当時最軽量の車体にドライバーのみの軽装でも喘ぎに喘ぎ、最後はJAFならぬ馬曳きに救助を要請する羽目に陥ったのではないか。

何故そう言えるのかというと、恐らく大正中期の時点で峠道にはバラスが撒かれていなかったからだ。自動車が登場する以前は馬車の通行のみが意識され、一定幅員の確保と勾配の緩和が課題であった。従って明治年間の道路でバラスを撒くというのは極めて異例である。

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◆津々川沿いを緩やかに滑り降りる県道320号線

例えば明治6年に完成した札幌と函館を結ぶ札幌本道は、計画段階から道幅一杯に砂利を敷き詰め、ローラーで転圧するマカダム舗装が採用され、明治一桁という極めて早い時期に、自動車の通行にも耐え得る優良な路が敷設されている。しかしこれは例外中の例外である。

北海道にはケプロンという有能な指揮官がいた。彼は西洋式の道路に精通しており、北の大地にて奇跡的に舗装道路の先駆的導入を果たした。それを可能としたのは大凡日本離れした広大な土地に長く続く平坦路、そして何と言っても未開の地という特殊な条件である。

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◆高梁川を挟み国道180号線と並走する県道320号線

総延長180kmに及ぶ道程にゼロベースの新道を敷設するとなると、各種利権や地主との交渉など越えねばならないハードルは高く、既得権で雁字搦めの本土での成立は事実上実現不可能であった。徒歩通行が主流の時代に舗装路が敷けたのは、舞台が北海道であったからだ。

明治年間の馬車道とは単純な土道であり、バラスを撒くという習慣が根付いたのは、自動車通行が市民権を得る大正時代に入ってからだ。それも市街地では堅牢な路盤であっても、一度山間部に分け入ると軟弱路盤というのがお約束で、アスファルト舗装で峠区が後回しにされた事がその証左だ。

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◆方谷駅前には昭和12年竣工の鋼鉄製の中井橋

明治年間に雨後の筍の如し勢いで全国各地で産声を上げた新道も、一定の幅員と勾配の緩和は満たしていても、強固な路盤を形成するのは極一部で、雨が降る度に泥濘と化す悪路が解消されるのは、バラスを撒いた道、即ち砂利道が幅を利かせる大正年間である。

落合や高梁などの市街地を中心にバラスは撒かれ、峠区間等の僻地が後回しにされたとすれば、大正半ばの時点で峠越えの乗合自動車が不成立に終わったのも頷ける。その頃はまだ馬が自転車を引っ張るのがやっとで、自動車の自力走行云々という状況になかったのだ。

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◆国の重要文化財に指定されているJR伯備線の方谷駅

森本画伯の絵では鼻曳き自転車業が成立したのは、大正7年〜昭和5年までとされている。12年続いた特殊業務を衰退させた一因として、乗合自動車による峠越えの成立を挙げない訳にはいかない。

大正15年には定期乗合自動車が多和山峠を越したのだ。運行開始時期こそ危なっかしいイメージがあったかも知れない。しかし安全運転に徹し徐々に認知されるようになり、市民権を得たのが昭和5年頃だったのではないかと僕は考える。

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