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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(17) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆国道313号線と県道78号線の交点 恐らく多田氏は大八自動車と大旭自動車を混同している。氏の作品は読者に対し大正8年にあたかも乗合自動車が多和山峠を越えたかのような誤解を与えかねない。だが実態は大正半ばの峠越えは我々の想像以上に厳しいものがあり、エンジン駆動車の自力走行は依然として叶わなかった。 明治年間には馬車が通れたのだから、物理的に自動車も行き来出来たのではないかという希望的観測を完全に排除した訳ではないが、森本画伯が遺した作品を見る限り、大正中期の自動車通行はほぼ絶望的と解釈せざるを得ない。それでは御覧頂こう、大正半ばに於ける多和山峠の現実を。 |
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◆多和山峠で自転車を引っ張る馬曳き自転車の絵 一見するとこの絵は、森の中の小道を駆け抜ける数台の自転車が、前を行く馬を追い越さんとしているかのように映る。下り勾配というシチュエーションであれば、そのシナリオ通りであろう。しかしこの絵は峠道の登坂シーンを描いたものであり、登場人物の全てが左下より右上へと上り詰めている。 峠を自転車で登るとなると通常我々は立ち漕ぎをイメージするが、この絵の中にいるチャリダーは誰一人立ち漕ぎなどしておらず、全員が全員座っている姿がはっきりと描かれている。まだ変速機の無い時代に未舗装の山道を果たして立ち漕ぎせずに越せるであろうか? |
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◆県道78号線の乢はママチャリでも楽勝の緩勾配 それが座ったままでも越せるんだなこれが。自転車と自転車の間をよ〜く御覧頂きたい。自転車同士がロープのような線によって繋がっており、その紐のような物は先導する馬に結び付いている。そう、チャリンコ軍団は自力で登坂しているのではなく、馬に引っ張ってもらっているのだ。 一体全体どのようなメカニズムによってこのような中国雑技団も真っ青の芸当が成り立っているのかは定かでないが、森本画伯が空想ではなく実態の様子を描いたものであるとすれば、この自転車牽引シーンは碓氷峠で特急列車を二連の機関車で引っ張る牽引シーンに勝るとも劣らない貴重な交通遺産だ。 |
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◆高低差の低い乢を越えた先に待つ本村地区 氏の付けた絵のタイトルに、あの日あの時あの場所で起こった全てが凝縮されている。 屹山名物馬ひき自てん車 (大正7〜昭和5) 移動は徒歩一辺倒であった江戸時代からすれば、余りにも近未来的な移動手段過ぎるがゆえに、ここは今一度大山のぶ代氏の声を借りて脳内再生してもらおう。 う・ま・ひ・き・じ・て・ん・しゃー! テッテケテッテテーテーテー♪ |
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◆本村停留所より誰がどう見ても峠に見えない乢を望む 自転車が中津井に入ったのは大正元年の頃で、たしか二台だったと思う。それが大正七年ごろには、早くも二、三十台になった。まだ乗合自動車もない時代で、最新能率の交通機関は自転車一辺倒であった。 町史は交通機関の自転車の項目で、多和山峠交通史の決定的な事項をさり気無く述べている。中津井町域に於ける自転車の保有台数が30台前後に達した大正7年の時点で、乗合自動車が皆無であるとしている。これは大正中期ではまだ乗合自動車が峠を越していないとイコールだ。 |
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◆県道78号線を直進すると自動的に県道310号線に入る 明治道を伝って果敢に攻めたドライバーもいたであろうが、やはり自動車が平然と駆け抜けるには時期尚早と捉えるのが妥当で、自動車のまともな通行は大正の晩年まで待たねばならなかったと思って間違いない。それまでの繋ぎ役として自転車が大いに活躍したのだ。 自転車で標高三百三十米、延長三粁、俗に辞職坂といわれる難路を越すのが実に天下一品、南行客は山の麓の清常で専門の業者自転車はなびき馬を雇うて、曲折の多い上りをひっぱらせる。馬主はくわえきせるの乗馬でパカパカパカ。 |
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◆大正年間は乗合自動車の終点であった西方停留所 自転車はハンドルのあやつりよろしく、カーブに気を配っていれば平気の平ざ、時に二台以上も連結する場合がある。一台の料金十銭也。二台で十五銭、三台の二十銭、四台が最大最強の二十五銭という相場。今、思うだけでもほほえましい風景ではある。 自転車4台がMAXという事は、まさに絵の隊列は最大最強の4台牽引シーンを描いたものであるのだ。 多和山峠18へ進む 多和山峠16へ戻る |