教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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多和山峠(16)

★★★

多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書

瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。

 

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◆園尾口停留所の裏手の旧道筋に石垣が認められる

・大八自動車株式会社

設立者は上野為吉らで、大正八年二月六日に設立された。運行区間は高梁・有漢であった。

・旭高自動車株式会社

設立者は室惇(中津井村長)らで、大正十五年一月十八日に設立された。運行区間は真庭郡落合・高梁で、後、落合・方谷も運行された。

旭高と大八自動車株式会社は昭和七年三月合併して、大旭自動車株式会社となった。

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◆パッと見旧国道には見えないが低い石垣が誘導する

大正8年にこの界隈を乗合自動車が疾走したのは間違いないところで、高梁⇔湛井(総社)のドル箱路線を筆頭に高梁⇔成羽、湛井⇔成羽の三路線を大正7年に走らせたのが当界隈に於ける路線バスの起源で、大正元年に先行開業した高梁⇔湛井間の乗合馬車を駆逐している。

その勢いに乗じてか大八自動車の高梁⇔有漢線が登場しているが、高梁から郡界を跨ぎ落合へと通じる路線が誕生したのは大正15年の初冬で、それはもう昭和に片足を突っ込んでいる昭和黎明期と言っても差支えなく、正確を期せば大正最晩期ではあるが、大正時代に掛っているのは僅か数ヶ月に過ぎない。

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◆二車線の町道に分断され旧道らしさは失われている

大正14年に美袋まで足を延ばしていた伯備南線は、同15年6月に木野山駅までの延伸開業に漕ぎ着けている。旭高自動車はこれを見越しての開業で、昭和元年と言っても過言ではないこの年に、多和山峠越えの乗合自動車が疾走したのはほぼ間違いない。

高梁川沿いにまだ鉄道の影も形もない大正の半ばは、乗合自動車業に手を出すのは時期尚早であるが、もうすぐ鉄道が繋がるという確証があれば話は別だ。鉄道の通じない中津井の村長が旗振り役となってバス事業に乗り出したのも頷ける。呰部等の近隣の有志も出資を躊躇わなかったであろう。

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◆町道との交点の片隅に明治の距離標が佇む

恐らく大正年間の多和山峠は自動車の通行を許さなかった。旧国道の原型である明治新道は、馬車は通せても自動車はギリギリアウトであったものと思われ、待避所の無い狭隘路に木橋の荷重制限、それに何と言っても勾配のきつさが次世代の車両を寄せ付けなかった。

峠越えの明治新道は確かに革命的であった。しかしそれは従来の江戸道に比しての事であり、真っ当な車道からすれば脆弱な山道であったに違いない。それを危惧した中津井村長等が立ち上がり、勾配の緩和や待避所を設ける等の措置を講じ、突貫で鉄道の開通に間に合わせたのだ。

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◆園尾口停留所付近に現存する旧道筋の全景

もしもこの時に紅葉橋や國司橋の付け替えを行っていたならば、鉄道の開業に間に合っていなかった可能性が大で、結果論であはあるが橋の付け替え等の大掛りな工事は後回しとし、とりあえず現状+αでその場を凌ぎ、時期が来たら抜本的な改良を施すという措置を取ったのは正解だ。

明治道を騙し騙しで供用する見切り発車的措置は否めぬが、それがあったからこその今日のトンネルを核とした快走路に繋がる訳で、大正15年の乗合自動車による多和山峠越えが実現していなければ、今とは違った勢力図になっていたかも知れない。というのも峠には実用的な迂回路が存在するからだ。

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◆園尾口から塩坪まで現道はほぼ旧道筋を踏襲

多和山峠の迂回路、それが県道310号線筋で、大正14年には落合と西方を結ぶ乗合自動車が疾走しているのがその証左だ。その路線は旭高自動車にも引き継がれ、美作落合駅⇔方谷駅間の路線バスとして成立している。その経路上に多和山峠並みの難所は存在しない。

県道310号線筋の使い勝手が著しく良好で、路線バスも行き来しているという実績があれば、主要路同士を方谷でぶつけるという案が浮上しても何等不思議でなく、多少の距離損と引き換えに安全ルートを選択するというのも無きにしも非ずだ。しかし現実には多和山峠に軍配が上がる。

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◆塩坪の新旧国道交点で一旦振り出しに戻る

それは古来幹線路としての役割を担ってきた意地であろうか、峠下の宿場的な位置付けで繁栄を極めた塩坪にとって、幹線道路から外れるのは死活問題で、鉄道が通じないエリアだから尚更由々しき問題である。

中津井以北の住民にとっては経由地が多和山峠だろうが西方だろうが大した違いはない。伯備線の停車場もしくは高梁市街地へ赴ければ良い訳で、意外にも路線バスの誘致に熱心だったのは峠の南側の住民であったのかも知れない。

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