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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(15) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆私有地の前後にはチェーンゲートが設けられている 最初の乗合自動車を動かした大八自動車株式会社が大正八年に設立され、高梁−有漢(一日三回)、高梁−呰部(一日二回)、高梁−巨瀬(一日一回)の間の路線が運行され、乗客を四名ないし六名ほど乗せて走ったようである。 今では入手困難な名著「おかやまの峠」で多和山峠の執筆を担当した多田久生氏は、当界隈では逸早く自動車運輸業に乗り出した大八自動車に焦点を当て、どこから拾ってきたのか知らないが、各系統の運行回数を提示する信憑性の高そうなデータを元に、蘊蓄を述べている。 |
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◆私有地区を抜け出た旧道は友末停留所の交点を直進 巨瀬とは高梁市街から国道313号線を北上し、県道169号西方巨瀬線に進入し、県道309号巨瀬高倉線と分岐するエリアを指す。また有漢は県道49号高梁旭線を3kmほど北上した市場付近を指す。そして三路線のうち呰部だけが大きく離れていて、それは意外な場所にあった。 呰部という地名は今も健在で、最新版のツーリングマップルにも記載されている。国道313号線に県道50号北房井倉哲西線と県道58号北房川上線がぶつかる付近の小さな町で、高速道路が通じた今でこそそのエリアは北房に置き換わっているが、その当時は呰部が幅を利かせていた。 |
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◆公民館の正面を擦り抜ける旧国道筋 そう、多和山峠を跨いだ向こう側にバスの終点があるのだ。という事はつまり大正8年の時点でバスは峠を越していた事になる。大正中期のバスと言えば車体はT型フォードで相場は決まっており、4〜6名が定員だったとする多田氏の見解は時代考証としては頗る正しい。 旧道筋で捉えた明治の距離標は、馬車の往来が可能な峠道が明治年間に完成していた事を示し、その道筋を伝って大正中期に乗合自動車が峠を越えたとしても何等不思議でない。しかし僕の手元にある時刻表がそれに異を唱えている点を無視する訳にはいかない。 |
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◆路面が未舗装であれば昭和30年代の風景 美作落合・備中中井村西方間/椿清吉氏経営 全区間 7里 / 運賃 2円60銭 運行時間 落合発 7:00ヨリ 8:00マデ 6回 運行時間 西方発 5:30ヨリ 5:00マデ 6回 大正年間に発布された定期乗合自動車便なる時刻表は、大正14年4月現在と称し上記の路線を掲載している。経営者である椿清吉氏は、中国鉄道の終着駅である津山口と津山市内のピストン輸送を手掛けた乗合自動車業の先駆者で、時期が時期だけに氏が当界隈に進出したのも頷ける。 |
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◆巨樹の根っ子に江戸時代のものらしき石塔を捉える 大正13年5月の作備線美作落合駅の開業に伴い、津山線の成功で先行者益の旨味を知っている氏は、逸早く落合駅発着の乗合自動車業に手を出した。同14年4月現在とある時刻表から逆算して、氏が美作落合駅の開業と同時に落合⇔西方間の乗合自動車を走らせたのは、ほぼ確実である。 県道169号西方巨瀬線と県道310号西方北房線の終点にして、県道311号若代方谷停車場線との交点に位置する山間の小さな町で、氏が西方を乗合自動車の起終点にしたのは何故かという点にフォーカスすると、大変興味深い事象が見えてくる。西方線の大方は現在の国道313号線筋に重なる。 |
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◆新旧道交点より友末と国司橋の連続する旧道を捉える 落合を発ったバスは呰部を経て上中津井から新道筋に舵を切り、高岡神社前を通過した車両は県道78号線筋を辿り、2km少々で県道310号線筋に入り終点を迎える。ここで疑問に思うのは、何故その系統は多和山峠を越さずに西方を終点としたのかという点だ。 普通に考えれば落合と高梁を連絡するのが賢明で、乗合自動車業の先駆者がそれを意識しない訳がない。しかし何故か氏はドル箱路線と成り得る高梁を選択せず、西方という田舎町を終点とし営業を開始している。氏は敢えて峠を越さなかったのか?それとも物理的に峠を越せなかったのであろうか? |
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◆園尾口停留所より右に分け入る旧道筋 多田氏の言うように大正8年に高梁と呰部を結ぶ路線が成立していたならば、椿氏は敢えて峠区間での競合を避けた、或いは申請したが免許が下りなかったというのは、十分考えられるシナリオだ。 しかし本当は峠を越したかったが物理的に不可能であったとすれば、西方を終点としたのは苦肉の策と考えるのが妥当だ。大正年間の多和山峠を自動車は越せなかった。業界再編の動きからはそう捉えざるを得ない。 多和山峠16へ進む 多和山峠14へ戻る |