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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(22) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆明治30年の多和山峠頂上切り下げを捉えた古写真 木炭バスが戦時下の多和山峠を越えた、それも“押し”が不要の自力走行というのだから恐れ入る。この情報はどの文献にも記載されないビッグデータで、般ピーにとってはどうでもいい情報であるが、交通史的には絶対に外せない貴重な証言で、生の証言をこの耳で授かれる事に感謝せずにはいられない。 あと十余年もすれば実際にバスを押した経験者のほぼ全てがこの世から居なくなる。後発組はもう少し早くから聞き取りを行っていればと後悔するだろう。この僕がエドサピエンスの生き残りと接触出来たのに無頓着であったとか、数年のズレで人力車に乗車した経験者に逝かれてしまったようにだ。 |
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◆かつて人力車の溜まり場があったとされる塩坪集落 明治時代まで中津井の大街道を通る客は、徒歩でなかったら人力車であった。高梁方面行の人は大てい屹山だけは徒歩で、塩坪から車を利用した。筆者は明治四十五年十二月、野球をやっていて右の足指を二本挫き、当地から有漢山県部落の接骨医まで人力車で行ったが、新道とはいいながら乗っている者も力がいった。 町史編纂者は人力車で屹山越え |
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◆高梁側の頂上付近に残る幅1.5m程の江戸道の残骸 一八九七年、多和山峠の頂上切り下げ工事と同時に、坂道の改修工事をした。そのときの工事の記念写真と用地寄附者への感謝状がある。 明治30年に多和山新道が成立 中津井誌の編纂者は明治最晩期の多和山峠を人力車で越えている。氏が峠道を新道と記すのも無理はない。明治新道の成立からまだ15年と日が浅いからだ。それでも乗っている方も力が入ったというからには、やはり今日の旧道とは似て非なるものであったのだろう。 |
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◆真庭側の頂上付近に残る幅1.5m前後の空間 ここでひとつ気になるのは「高梁方面行の人は大てい屹山だけは徒歩で」という箇所である。この部分だけをみると新道に対する旧道、即ち江戸道が車両の通行を許さなかったと読み取れ、峠下にあたる清常と塩坪の間は半強制的に徒歩移動であったものとの解釈が成り立つ。 だとすれば何故筆者は大抵という言葉を用いたのだろうか?大抵を辞書で引くと大体、大部分、大凡、ほとんどといった言葉が並び、そこからは大多数の通行者が徒歩による峠越えを余儀なくされていた事が分かる。但し大抵という表現をするからには、中には例外があったものと思われる。 |
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◆大正年間に北房に入ってきた頃の乗合自動車 中津井の幹線は六尺もあったらいい方で、屹山など勾配のキツイ只今の旧道がそれ、中休みのための茶店が二軒もあった。中車が毎日何十台か往復していた。 江戸道を車両(中車)が往来 多和山峠に車道が不成立であった時代、即ち旧態依然とした江戸道を伝っていた際に、人が牽引して移動する小型車両が峠を行き来していたと町史は訴える。という事は人力車が江戸道を伝って峠越えしていた可能性が大だ。 |
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◆総社⇔高梁間の乗合馬車を駆逐した乗合自動車 明治九年春の頃、沼田安平氏人力車輌を購い、浅田浪蔵をして之を挽かしめたるを始めとし、明治十三年に坂本退蔵氏が郵便局長のとき買い求め、宇吉という者に挽かせた。中津井乢山が切り下げられ乢越えが楽になったとは言えまだなかなかの坂で、この坂を登るとき馬や牛に前を引かせて登ったりした。坂の登口にあたる清常では前引きのための馬や牛を飼っていた。車夫や客の注文によって車の前引きをして駄賃稼ぎをしていた。前引き馬は巨瀬の塩坪にもあって、塩坪から乢山までの前引きをしていた。 |
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◆大八と旭高が合併した頃の(株)大旭自動車社員一同 人力車が牛馬の前引きで峠越え 北房界隈も御多聞に漏れず、明治一桁の時点で人力車が疾走していた。一部の人力車は客を乗せたまま牛馬の前引きに依って激坂の江戸道を克服し、塩坪の帳場で別の車輌に乗客を引き渡した。その逆パターンも然りで、塩坪⇒清常を人力車がダイレクトに越える機会が少なからず存在した。大抵とはつまりそういう事だ。江戸道を梃入れした暫定車道は、牛馬による前引きの条件付きながらも、中車や人力車の通行を許した。つまり明治10年代の多和山峠には、既に車道の原型が出来上がっていたのだ。 多和山峠21へ戻る |