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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(12) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆旧道筋には国道時代の標識等が今も多数現存する 今は道が広くなったしトンネルもあるから、私等が乗っていた頃よりは随分とマシになったけど、昔は延々とガタガタ道で道幅も狭かったから、どこへ行くのも大変だった。でもあの時代はバスしかなかったからねぇ。 畑仕事に精を出す婆ちゃんは、高梁へ通うのに路線バスを利用していたという。通学に通勤に買物と、それこそほぼ毎日のようにバスに乗り、その行動パターンは普段呼吸を意識しないのと同様に、路線バスに乗り降りする事を全く意識しない日常そのものであったという。 |
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◆新旧国道は短いピッチで合流と分離を繰り返す ほれ、そこに狭い道があるじゃろと言って、婆ちゃんは二車線の快走路と付かず離れずで並走する狭隘路を指差し、そこを通ってたんじゃと言い切った。それは古い警戒標識や法面に石垣が認められる幅員3.5〜4mの道路で、やはりその道筋が一時代前の国道なのだ。 真庭側は新道と旧道が干渉しない別路線になっている為、旧道の道筋が晩年の状態をキープしたまま今に至るのに対し、高梁側は旧道筋をベースに大胆な改修を施した結果、切れ端の一部が左右に散らかっており、正確な旧道筋を把握するには、残骸をひとつひとつ丁寧に拾い上げ繋いで行くしかない。 |
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◆原住民に言われなければ旧国道とは思えない狭隘路 右、左、右、左と交互に現れる旧道の残骸から、新道が旧道を串刺しにする格好で敷設された事が分かる。地形的な問題からか高梁側は谷の左右に新旧道を振り分けず、一部を旧道に重ねながらの建設で、通行車両に気を配りながらの工事は、真庭側の何倍もしんどいものがある。 しかしその御蔭で新旧道の対比が容易で、ほぼ一車線に等しい旧道からの脱却に、沿線住民の期待は日々高まる一方であったに違いない。何せ新道は大型車同士の相互通行を許す次世代型の路である。もういちいち対向車を意識しなくて済むから、期待値は鰻上りであったのは間違いない。 |
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◆狭隘山道を路線バスが駆け抜けたと証言する婆ちゃん 今と違って交通量は格段に少なかったというが、それでも南北縦貫線の一部である以上、沿線住民のみならず陰陽を連絡する長距離便も相俟って、昼夜を問わず多数の車両が行き交ったに違いない。特に昭和45年の国道昇格による影響は計り知れないものがある。 昨日まで山間部の町を結ぶ地域密着型の路でしかなかった峠道が、ある日を境に山陰は倉吉市と山陽は福山市を結ぶ陰陽連絡路になるのだから、県外ナンバーを引っ提げた車両が多数流入してくるのは当然で、多和山峠にとって昭和45年というのは、ひとつのターニングポイントである事は間違いない。 |
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◆路面が未舗装であれば馬車道にしか見えない石垣道 とは言っても大改修を終えた上でのお披露目ではなく、状態は昨日までと何等変わりませんが何か?的な放置プレイで、市街地は国道昇格の前後で多少は改良の手が入っていたであろうが、峠区間は最後の最後まで手付かずのまま取り残された。その残骸が高梁側にも随所に散見される。 大型車と歩行者の擦れ違いもままならない旧道には、かなりの部分に石垣が認められる。石の形状に統一感は無く、バラバラの個体を上手い事積み重ねた格好だ。素人のみでこれを組み上げるのは至難の業で、有能な指揮官が居てこその芸当である。勿論村人総出の道普請で成し遂げた逸品だ。 |
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◆旧道筋がそのまま待避所として二次利用されている 構造的には真庭側にみる石垣群と瓜二つで、峠区間の石垣は高梁側と真庭側の双方より同一人物による指揮の下、同時進行で築かれたものと思われる。御世辞にも構造的に傑作とは言い難いが、100年の時を超えた今も壁面を擁護し続けている事に、感動せずにはいられない。 旧国道の起源は明治の馬車道である。それをベースに改良に改良を加え、昭和の晩年まで騙し騙しの供用でも耐え凌ぎ、現役を退いた今も与えられた責務を果たしているのだから恐れ入る。果たして石垣を組み上げた当時の人々は、それが100年後も依然として役目を果たしていると考えただろうか? |
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◆大胆に削られた旧道へ取付道で一気に駆け上がる 永久橋と称されるコンクリ製の橋梁が登場する遥か以前の土木構造物である。次の世代で石垣は何かに置き換わっていて、それまでの繋ぎ役程度でしかないと思っていたとしても何等不思議でない。 しかし幸か不幸か石垣は今日まで持ち堪え、瓦解する兆候も見られない事から、この先も数十年単位で変化は無さそうな雰囲気で、精魂込めて丁寧に組み上げた結果が好成績に繋がっている点を疑う余地はない。 多和山峠13へ進む 多和山峠11へ戻る |