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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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多和山峠(13) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆幅員3mの完全一車線の有漢町側旧国道筋の最狭区 果たしてこれほどの狭隘区が真庭側にあったであろうか?高梁側に現存する旧道の残骸を見るにつけ、極端な道幅の狭さに驚きを隠せない。所々に散見される最狭区は、どれも二車線の片側、つまり一車線分しかない。石垣と路肩に挟まれた車道に逃げ場は無い。 単車と普通車との擦れ違いがギリギリセーフで、4トン以上の大型車との離合では、下手するとハンドルバーの先端が四輪のボディに接触し、転倒しても不思議でない危うさを孕んでいる。ここでの接触事故は落差10m以上の回転レシーブを伴い、場合によっては落命も無きにしも非ずだ。 |
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◆待避所の先も四輪一台がやっとの狭い山道が続く 見かねた地主が山側の一部を提供し、普通車同士なら何とか交わせる待避所があるにはあるが、大型車との擦れ違いとなると慎重に慎重を期しても足りないくらいの綱渡りで、このような危うい箇所に限ってガードレールのひとつも備わっていないのが、三流道路のお約束となっている。 最狭区に残る四輪のタイヤ痕と、単車のハンドルバーの長さを足すと丁度3m程度となり、都市間を連絡する幹線道路としては何とも心許無い数字だ。但しそれは相互通行が当たり前体操となったここ数十年の話で、それ以前は幅員3m前後でも必要にして十分な規格であった。 |
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◆落差10m以上の急崖にガードレールのひとつも無い この峠道を馬車が越えるようになって明治の後期は、交通量が多いといっても高が知れている。今のように1分と待たずに次の車両がやって来るほど忙しくはなかったし、何より車両そのものの数が現代に比し圧倒的に不足していた。従って3m幅の山道でも余裕で捌けていた可能性が大である。 大正後期にはこの峠道をエンジン駆動車が駆け抜ける事になるが、それとて急激に車両数が増加した訳ではないから、明治道そのままの仕様でも戦前までは何等問題がなかったものと推察される。特定のプロが車両を操っている時代はまだ良かった。問題は素人が大量に雪崩れ込む昭和40年代以降だ。 |
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◆狭隘山道の行き着いた先に古風な橋が待ち構える 戦後日本にとって昭和20年代というのは、現状復帰へ向けた復興の時代である。道路状況は劣悪で実動車も限られていたから、他地区への移動そのものが不成立であった。迎えた昭和30年代はバスが最も輝いた黄金時代で、集団の中の一員という枠組みで、人々はようやく自由な移動が叶うようになった。 時同じくしてスバル360が市場に投入されたが、一般サラリーマンの給料の3年分と依然としてマイカーは高嶺の花であったが、東京オリンピック前後には一般庶民にも自動車が手の届く値段に落ち着き、いよいよマイカー時代の到来を予感させたが、残念ながら道路状況が追い付いていなかった。 |
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◆コンクリ橋の親柱には橋司國と彫刻されている 大衆車の牽引役として指名されたスバル360は、ガタボロ道の山岳道路で大人四人を載せたままオーバーヒートせずに走破する能力を求められた。実際にその期待に違わぬ性能を発揮し大衆車の旗振り役となる訳だが、開発者が驚くほどに当時の日本の道路状況は半端なく酷かった。 当時の我が国の道路の八割方が未舗装路であるのは当然として、普通車同士の擦れ違いもままならない狭隘路が大半で、通行車両の大方が大型車ときているから、車両同士が交わせる場所まで延々と後退するのが常であったし、忘れてはならないのはそこに荷馬車が混じっている点である。 |
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◆昭和初期を彷彿とさせる重厚感のあるコンクリ橋 昭和40年代に入ると超の付く山間部以外は、馬車はオート三輪に取って代わったが、昭和30年代はまだ普通の田舎で馬車は主たる移動手段であった。いくらてんとう虫と称される小さな車体でも、幅員3m前後の狭隘路で馬車は交わせない。歩行スピードで移動する馬車の移動渋滞に巻き込まれる羽目になる。 駅前商店街はどこも押すな押すなの圧し合いで、山間部では馬車に行く手を遮られるから、障害物がなくなってもソロバン道路であるから、マイカーによるドライブもかなり骨の折れる過酷な旅であったのは想像に難くない。ただガタボロ山道にもオアシスのような場所があった。それが橋梁だ。 |
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◆銘板には昭和12年11月竣工と彫刻されている 真庭側でみた紅葉橋がコンクリ製であったので、高梁側にも似たような橋があると期待したが、それは期待値以上の姿で僕の目の前に現れた。現道と干渉せずに取り残された竣工時のままの状態を維持した戦前の置き土産である。 親柱の銘板には昭和12年11月竣工と彫刻されている。それ以前は木橋の架け替えで凌いできたであろうから、これが当山道初の永久橋であるはずで、構造的に紅葉橋と前後して架け替えられたであろう事は、ほぼ間違いない。 多和山峠14へ進む 多和山峠12へ戻る |