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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>多和山峠 |
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多和山峠(8) ★★★ |
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多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書 瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。 |
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◆資材置き場の先のカーブの先に切り通しが待つ 高い塀に囲われた資材置き場が現れると、峠はもうすぐそこにある。サミットはカーブの先にあるので、この地点からは拝む事が出来ないが、多和山峠を一度でも通り抜けた経験があるならば、このシーンを目の当たりにした瞬間、峠に到達したと安堵するくらい鮮明に脳裏に焼き付いている。 どの峠にも幾つかの印象深い特徴が見受けられるが、ここ多和山峠だと北房側の資材置き場がそれに該当する。道中は目立った建造物がほとんど見当たらないから、このような建物がどうしても目に留まり易い。それも峠の直前に位置するから、峠とリンクする形で非常に印象に残り易い。 |
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◆サミット直前の幅広道にも石垣が延々と続いている 北房側の登り途中には土建屋の資材置き場があるが、それと合わせても建造物はたったの二棟で、個人宅に於いてはただの一軒も見当たらない。これが馬車道起源説の第三の根拠である。多和山峠は古来乢山峠と記され、多くの旅人が行き交った主要街道に属す。 その道中には一般の人家があって然るべきで、茶店の一つや二つがあっても何等おかしくはない。しかし北房側の道中には人家の跡らしき更地すら認められない。上り途中は取り付く島がない急崖がほとんどで、人が安心して根を下ろせるような安全地帯にない。 |
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◆石垣の個々の石の大きさはバラバラで統一感は無い 山襞を丁寧に縫い繋ぐ緩やかな勾配の路は、車両の通行が叶う道路としては成立するも、そこで生活が成り立つのかと言えば、極めて厳しいと言わざるを得ない。北房側は基本的に急崖に阻まれており、平坦な場所の確保が困難な状況にある。但しやってやれない事はない。 現実に道中には二棟の建造物があるのだから、強引に一般住宅が割って入る事も出来たであろう。家を建てる事は物理的には可能だが、それはコストやリスクを考えなければの条件が付く。峠下の更地で家を建てるのと斜面に家を建てるのとでは、同じ建物でも難易度の違いで建設費は当然割高となる。 |
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◆後年の拡幅で右側の石垣は跡形もなく消えている それ以前にわざわざ急斜面に家を建てようという発想がない。平地争奪戦に明け暮れる長崎や函館や尾道とは訳が違う。下界へ行けば幾らでも更地があるから、当界隈生え抜きの者の普通の感覚であれば、峠道の急斜面に家を建てようとは思わないし、そのような僻地に家を建てる必要も無い。 何故ならその昔から有効な場所には家が建っているからだ。僕は見逃さなかった。狭隘山道に纏わり付く木々の隙間から見え隠れする別路線と、その沿道にポツリポツリと散見される人家の様子を。もしもそれが最古の峠道であるとすれば、僕が辿ってきた道は紛れもない明治新道という事になる。 |
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◆カーブの先に待つ幅員4m前後の狭い切り通し 遠巻きに上り詰め180度反転する紅葉橋、沿道の斜面の半分近くを擁護する古風な石垣、明治年間に設置されたと思われる距離標、加え道中に全く人家が見当たらない事から、当山道は明治にゼロベースで敷設された馬車道との解釈が成り立つ。 多和山峠旧道=明治新道 新道があればどこかに旧道がある訳で、この時点でまだ確証は得られていないが、木々の隙間から捉えた未知なる路線が旧道である可能性があり、それが江戸道であるならば多和山峠旧道=明治新道説が確定する。 |
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◆切り通しの真只中に佇む二体の御地蔵様 峠は両側が垂直壁に阻まれた息苦しい空間で、結構な落差のある切り通しになっている。実際の山頂から10m超を掘り割られた格好だが、その狭隘空間には二体の御地蔵様が祭られている。一体は古道にありがちな体裁であるが、もう一体は今にも動き出しそうなほどリアルな御地蔵様だ。 リアル地蔵、略してリア蔵が明治以降の代物であるならば、左のノーマルな御地蔵様は江戸時代のものである可能性が大だ。切り通しは岩を砕き石垣を配しているから、現在の峠が明治年間に成立したのは間違いない。その際に頂上に鎮座する御地蔵様を下ろしてきたのだろう。 |
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◆パッと見狭い掘割も軽自動車同士の擦れ違いを許す 古来峠を行き交う人々を見守ってきた石地蔵を移設し、新道の敷設という節目に新たな御地蔵様を設置したと思えば、二体の地蔵が並んでいるのも頷ける。だとすれば江戸道と明治道は頂上付近で重なっているとみるのが妥当だ。 この掘割の遥か頭上を昔の人は歩いて越していた。僕等がよく知る旧道は明治に拓かれた古くて新しい車道で、その昔から連綿と供用される人畜のみが有効の街道筋は、車道とは干渉しない全く別の経路を辿っているものと推察される。 多和山峠9へ進む 多和山峠7へ戻る |