教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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多和山峠(7)

★★★

多和山峠(たわやまとうげ)の取扱説明書

瀬戸内と日本海を結ぶ地味な国道313号線の道中で、最難所と言えば犬挟峠で異論はないと思われるが、それと双璧を成すとされる難所がある。それが真庭市と有漢町の市町界を隔てる多和山峠だ。僕は最近まで気付かなかった、峠名の多和が乢とイコールである事に。平仮名表記にして初めてそれを意識する事になるが、それが単なる思い込みでない事実を後に知る事となる。多和山峠は古くは峠山峠と表記され、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山のキャッチフレーズ同様、上から読んでも下から読んでも峠山峠である事が調査過程で判明する。この衝撃の事実はロイター通信を介しアメリカ全土に発信され、全米を震撼させた。今でこそ誰もが発狂せずに済むように多和の文字が宛がわれているが、古来多和山峠は峠山峠が正式名称であり、漢字では誤魔化せても平仮名では誤魔化せない。たわやまとうげは読んで字の如し峠&山&峠と山深さを前面に押し出しており、多和山峠表記ではけして読み解けない難所である事を、昔の人は身を以て知っていたのだ。果たして峠を連呼する程の難所とはどのようなものなのか?その実態を白日の下に晒そう。

 

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◆道路を挟みデリネーターと向かい合う石柱を捉える

この山道以外にも南北を繋ぐ幾つかのルートが存在する。県道312号宮地有漢線や県道332号栗原有漢線と県道49号高梁旭線を繋ぐ事で代替が利く。広域農道や林道を含めると複数の選択肢がある訳だが、そのようなネットワークが張り巡らされたのは後年の事である。

昔は選択肢が限られ、特に車両での峠越えとなると、極一部の道に限られていた。その筆頭にして先鞭をつけたのが多和山峠で、この峠道の北房側には明治政府の御墨付きが形として残っている。今尚風雪に耐えながら進行方向左手の路傍に佇んでいる道路元標がそれだ。

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◆峠道の北房側のみに現存する道路元標

峠の北房側には道路元標が現存

距元標十六里岡山縣と記された石柱は、江戸時代の遺跡でも近年の遺構でもない。これは紛れもなく明治国家が設置した道路付帯設備で、道しるべや一里塚に代わる新たな水先案内人である。

僕が当山道を馬車道と断定する根拠がこれだ。線形的には既に紅葉橋でその片鱗が垣間見られた訳だが、それを後押しするのがこの道路元標で、意図的か否かは定かでないが、石柱の正面にはデリネーターが設置されている。

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◆叶うなら離合は避けたいガードレールの無い狭隘区

昭和と明治の道路遺構が対峙する格好になっているが、そこに江戸道特有の古道臭は一切感じられない。当山道は生まれながらにして車道である可能性が大で、発端は馬車の通行を許す程度の狭隘山道であるが、四輪の往来を実現した初めての山道という点で、従来の路とは一線を画す。

峠名に多和の当て字が用いられる遥か以前は、人畜のみが有効の小径がこの山のどこかにあったはずで、現時点でその道筋がどこをどう辿っているのか僕には想像が付かない。新旧道が一箇所でも交差していれば、そこから当りを付ける事が出来るが、今の所それらしき交点は見当たらない。

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◆大型車でも安心の二車線幅を有するS字カーブ

当山道が江戸時代から上書きに次ぐ上書きで代を重ねてきたから江戸道が見付からないというのも一理あるが、それだと一旦明後日の方向へ無駄に大きく膨らみ反転する紅葉橋の説明が付かない。また何よりもこの山道には本来あるべきものが無いという不可思議さを指摘しない訳にはいかない。

通常江戸道を筆頭とする古道には、何等かの石造物があって然るべきで、文字が刻まれているいないに関わらず、その他大勢とは明らかに異なる石が置かれているものだ。それらしき石造物が一点も見つからないのだから、当山道が古道筋を踏襲しているとは到底思えない。

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◆苔と雑草に覆われ山肌に同化している石垣

十日乢&四ッ乢の備前街道筋には有り余る石造物群が認められた。仮に県道159号線筋が出来過ぎであったとしても、2、3点の遺構は見付かって然るべきである。しかし多和山峠にそれらしき遺構は見当たらない。少なくとも北房側には皆無であり、目立った遺構は石垣のみである。

石垣は距離標の前後にも地味なものがあり、巨石を配したぶっ飛び石垣に比すれば大人しいが、その地味な石垣が他所で目にする一般的な規格の石垣で、紅葉橋の直前に構えるモンスター石垣がイレギュラーなだけだ。兎にも角にもこの山道では石垣の派手さだけが際立つ。

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◆進行方向右手の建造物が峠近しのサイン

僕の目にそれは明治国家の威厳に映る。江戸時代のシステムを全否定し、新しい日本とはこういうものだ!という事を内外に知らしめる為に、大艦巨砲主義的な重厚な鎧を身に纏う事で、古い様式と決別する意志が強く反映されたものであるように思えてならない。

特に紅葉橋直前の巨石を組み上げた石垣はその象徴で、もう少し大きめでいこうか、いやいや倍の大きさでいこう、倍返しだ!やっぱ石垣のコーディネートはこーでねーと、なんつってな!大は小を兼ねるから出来るだけデカい石持って来いや!そうやって際限なく巨大化した結果がアレだ。

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◆峠の直前で幅員は二車線幅へと膨張する

その場の勢いというのは恐ろしいもので、誰かが待ったをかけない限りとんでもない方向へと突き進み、最後は破滅的な道を辿る事になるが、紅葉橋がいい意味で防波堤となって、その後の石垣は落ち着きを取り戻している。

視界前方右手に資材置き場らしき建造物が見え隠れするが、この峠に慣れた者はそれが峠近しのサインである事を知っている。道幅は大型車同士の擦れ違いを許す二車線幅へと膨張し、頂上へと滑り込む。

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