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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>四ッ乢 |
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四ッ乢(10) ★★ |
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四ッ乢(よつだわ)の取扱説明書 これまでも歴代の地形図や古文書等に記載されない峠を発掘してきたが、またひとつここに新たな未知なる峠がコレクションに加わろうとしている。その峠道はかつて国道を名乗った時期がある伝説のルートで、道路史的価値はその他大勢の雑魚道とは一線を画す。表向きは単なる県道を装っているが、その実態は国道時代と歩道以上車道未満の二つの顔を持つ、一粒で二度美味しい希少物件で、一般的な名無しの峠となっている現場を住民は四ッ乢と呼ぶ。その道程は取るに足らない些細なものではあるが、一度は国道を名乗った以上、道路史的には絶対に外せない。十日乢と共に連続踏破する事で、かつて國道十九號を名乗った路線の全てを白日の下に晒す。 |
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◆国道181号線と交差する出雲街道と備前街道の重複区 大正14年補正の地形図では、JR姫新線の前身である作備線の姿が描かれている。大正11年に開業した鉄道路線を取り込んだのはいいが、十日乢が旧道経由のままであるとか、四ッ乢は高徳の丘を越えているだとかで、変更点は必要最低限に止められている。 出雲街道にしても津山街道にしても、既に乗合自動車が疾走している時分であるから、それらの大道に負けずとも劣らない備前街道が、未だ馬車も通さぬ駄路というのはちょっと考え辛い。明治時代は兎も角、大正に入っても尚江戸道を騙し騙し使っていたというのは、基本的に有り得ない。 |
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◆二又を左が出雲街道旧旧道で右が備前街道 その経路が国道に編入されたとすれば尚更で、いくらなんでも人力車の通行しか許さない江戸道由来の路を、国道指定するなどどうかしている。但し点線道でもいいから一旦国道に指定しておいて、国道という既成事実を元に後で改修するというやり方も無くはない。 しかし果たして十日乢旧道や高徳の丘越えの路を国道指定するであろうか?今でこそ旧道の大半は2.5〜3m幅を有するが、その当時は基本的に幅員が1.5m前後で、MAXでも2mくらいしかない狭隘路である。馬車の通行をまともに許さないのだから、そんな駄路に国道も糞もない。 |
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◆国道181号線の旧道筋を目指す県道159号線旧道 江戸道を本線として只今絶賛供用中とする大正14年補正の地形図に対し、町史は明治40年頃から桑下を縦貫する路線が国道であったと謳っている。実はそのどちらも間違っている。桑下経由の縦貫線が国道指定されたのは大正8年で、同9年に施行されている。 従って明治40年頃から国道を名乗るとする町史の言い分は、正確さを欠いている。しかしながら大枠で間違っていないのは、明治40年というのが峠史に於いては極めて重要な節目であるからだ。この年十日乢と四ッ乢を越える南北縦貫線が、コース変更を伴う大幅なリニューアルが成される。 |
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◆明治40年まで主役を張った人力車のみ有効の狭隘路 備前街道の面目を一新する待望の馬車道が完成したのだ。町史は期待の新道を国道と称している訳だが、新道への切り替えから十余年後に国道へ編入されている事から、掠りもしないガセネタという訳ではない。現県道の基礎となった新道が後に国道を名乗ったのだから、大きく間違ってはいない。 大正期の地形図は鉄道の追加のみに留まり、その他の補正処理は戦後に譲った事で若干の乖離が生じ、町史は町史で大正9年の道路法をスルーした事で、明治40年竣成の新道を国道という大枠で括ってしまった。両者共に正確さに欠ける点は否めないが、そのどちら決定的な乖離がある訳でもない。 |
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◆角に杉本酒店のある国道181号線旧道との交点が終点 結局のところ落とし所としては、明治40年に日の目を見た馬車道が、大正9年に国道に編入されたという事なのだろう。上手くまとめたような感があるが、実のところ僕も威張れたものではない。何故なら十日乢及び四ッ乢の聞き取りでは、一人も国道時代を知る者に接触出来ていないからだ。 戦前生まれという複数の古老から話を窺ったし、戦後しか知らない世代からも当時の様子を聞いている。しかし不思議な事に現県道159号線筋をかつて国道だったという者は誰一人見付からない。たった一人でもいいから昔は国道だったと言ってくれ、そう願うも待ち人は現れなかった。 |
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◆T字路の先に待つ学校跡地へと案内してくれた古老 呉の造船所でキノコ雲を目撃したという古老もまた、桑下経由の県道が国道だったなんて知らなんだという そこはどこにでもある何気ないT字路で、特に道標等の遺構がある訳でもないが、国道181号線旧道とぶつかる交点が出雲街道と備前街道の分岐点であるという。その証拠に交点の奥にはかつて学校があったという。現在は土台の石垣しか残っていないが、二つの街道が交わる交点には学校が存在した。 |
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◆学校跡と古地図の照合でT字路が備前街道の終点と確定 確かに昭和21年発行の地形図には、二つの街道が交わるT字路に文の文字が認められる。古老が入学する際に、学校は線路の向こう側に移転したといい、戦前には既に廃校となっているので、その点も歴代の地形図との整合性は取れない。 学校がいつからいつまで存在したかは別にして、その所在が出雲街道と備前街道が交わるT字路にあったのは事実で、多少のタイムラグはあるにせよ杉本酒店のT字路が、備前街道の起終点である事を疑う余地はない。 四ッ乢11へ進む 四ッ乢9へ戻る |