教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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四ッ乢(9)

★★

四ッ乢(よつだわ)の取扱説明書

これまでも歴代の地形図や古文書等に記載されない峠を発掘してきたが、またひとつここに新たな未知なる峠がコレクションに加わろうとしている。その峠道はかつて国道を名乗った時期がある伝説のルートで、道路史的価値はその他大勢の雑魚道とは一線を画す。表向きは単なる県道を装っているが、その実態は国道時代と歩道以上車道未満の二つの顔を持つ、一粒で二度美味しい希少物件で、一般的な名無しの峠となっている現場を住民は四ッ乢と呼ぶ。その道程は取るに足らない些細なものではあるが、一度は国道を名乗った以上、道路史的には絶対に外せない。十日乢と共に連続踏破する事で、かつて國道十九號を名乗った路線の全てを白日の下に晒す。

 

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◆高徳の丘越えの路は人力車でも楽勝の緩い坂が続く

備前街道は近年になって車道に改められたのではなく、今から140年も前にほぼ人力のみで拓かれている。街道ウォーカーにとってそれはどうでもいいネタだが、我々道活組にとっては聞き捨てならない話だ。それに輪を掛けてこの不人気な山道には、我々の探求心を擽るロマンがある。

なんと山尾神社から小高い丘を越え、久米中学校裏手の五差路を経て国道181号線に至る街道筋が、瞬間的に国道指定を受けた可能性があるのだ。陸地測量部が発行する歴代の地形図を絶対視するならば、左大仙みちの道標が鎮座する経路が、国道19号線の肩書を授かっている事になる。

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◆明治40年まで本線を名乗った事実を知る者は皆無

この界隈が1/5万スケールで測量が成されたのは明治30年頃で、十日乢&四ッ乢が掲載される地形図が初めて世に出るのは明治34年で、測量そのものは明治31年に完了している。その時代の経路は今まさに僕が辿ってきた丘越えの路で、完璧な車道として忠実に描写されている。

その当時唯一にして最大の極太二重線で描かれるのは出雲街道であるが、それに次ぐ規模の重要路線として津山街道や久世⇔落合間の旭川右岸道路が目に付くが、山尾神社経由の山道がそれらと同等に描かれている点は、見落としてはならない重要なポイントである。

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◆本線は右折もT字路の交点に道標は見当たらない

今でこそ存在意義が限りなく希薄な当路線であるが、明治30年頃はこの界隈の国道筋と何等変わらぬ扱いを受けた幹線道路であったのだ。津山街道は国道53号線としてすっかり定着し、落合の右岸道路は国道313号線を名乗って久しい。明治半ばの当路線は、それらと同等の扱いを受けていたのだ。

出雲街道と院庄で分離する現国道179号線は、その当時から同じ二重線で描かれているが、線の太さでは現県道159号線筋に軍配が上がる。その事は明治の半ばにして既に十日乢と四ッ乢を連続して跨ぐ山道が、準国道級の扱いを受けていた事に他ならない。

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◆右手よりぶつかる小径は江戸由来の出雲街道旧旧道

明治中期の十日乢&四ッ乢は、今やウラン鉱床で全国区となった人形峠をも凌ぐ存在であった。しかも十日乢なる峠名は県下でもほとんど認知されておらず、四ッ乢に至ってはいつ口頭による伝承が途絶えても不思議でない幻の峠であるから、両者を同じ土俵に持って来る事自体が至難の業である。

しかしこの度の掘り下げにより十日乢&四ッ乢VS人形峠が、同時代同スケールの比較検証によって、十日乢&四ッ乢連合>人形峠が白日の下に晒され、いつ何時国道に昇格してもおかしくない路線は、国道19号線に成るべくして成ったというのが偽らざる事実である。

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◆旧旧出雲道と備前街道が重なった直後が国道との交点

更に地形図は語る、かつて山尾神社の隣に村役場があったのだと。大倭村は明治時代から終戦間際まで存在した自治体であるが、その役場が備前街道筋に置かれていたのだ。その事は久米中学校裏手を伝う山道が、出雲街道筋に次ぐ極太の二重線で描かれている事が、記載ミスでない事を意味する。

驚くべき事にその二重線が点線へと引き下げられるのは、昭和7年補正同21年発行の地形図からで、大正14年補正昭和3年発行の第二版では、公然と備前街道筋が現役路線となっているのである。仮にそれが事実であるならば、十日乢旧道が国道指定を受けた事になる。

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◆山尾神社より高徳の丘を越える旧県道の経路図

長らく県道一等として拮抗していた津山街道と備前街道が、大正9年に遂に優劣を決する。十日乢&四ッ乢は国道19号線へと昇格し、皿川伝いの路は県道岡山鳥取線として県道のポストに留まる事となった。桑下を挟み千代と亀甲を結ぶ現県道159号線筋は、いきなり全国区の仲間入りを果たす。

その際指定された路線は、明治の晩年に新設された馬車道と考えるのが妥当だが、大正14年補正の地形図にあるべきはずの新道は、影も形も見当たらない。あるのは上組から十日乢を越え、桑下を経て大倭村役場付近から高徳の丘を越える路線のみである。

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◆四ッ乢より高徳の丘を越える一時代前の県道の経路図

地形図ありき地形図命で国土地理院の地形図を絶対視するならば、備前街道が国道指定された大正9年の道筋は、馬車の通行を許さない旧道筋という事になる。地形図に一点の曇りもないとすればそうなる。

果たして地形図は信頼に足るものなのであろうか?答えはNOである。残念ながら地形図はその時代の様子を忠実に反映していない。即時更新が成されておらず、新たな情報が刷新されるまで数年、下手すると十数年のタイムラグがある。

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