教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>旧道>岡山>四ッ乢

四ッ乢(7)

★★

四ッ乢(よつだわ)の取扱説明書

これまでも歴代の地形図や古文書等に記載されない峠を発掘してきたが、またひとつここに新たな未知なる峠がコレクションに加わろうとしている。その峠道はかつて国道を名乗った時期がある伝説のルートで、道路史的価値はその他大勢の雑魚道とは一線を画す。表向きは単なる県道を装っているが、その実態は国道時代と歩道以上車道未満の二つの顔を持つ、一粒で二度美味しい希少物件で、一般的な名無しの峠となっている現場を住民は四ッ乢と呼ぶ。その道程は取るに足らない些細なものではあるが、一度は国道を名乗った以上、道路史的には絶対に外せない。十日乢と共に連続踏破する事で、かつて國道十九號を名乗った路線の全てを白日の下に晒す。

 

DSC02091.jpg

◆道標を過ぎてもうしばらく緩やかな坂を上り詰める

江戸時代の初期に遠出をする際には、御上を納得させる明確な理由を必要とした。しかし江戸も中期に入ると規制も若干緩和され、寺社参詣を大義名分とする物見遊山的な長距離移動が可能となる。これが今日のドライブやツーリングの起源であるが、当然駆動力は自身の足である。

我々現代人は長距離の歩き旅など有り得ないと考えるが、まだ自由度の少なかった時代は歩き旅そのものが至福の一時であったに違いない。当時の様子をどれほどリアルに再現しているのかは分からないが、ブラウン管に映る黄門様御一行は、とても気持ち良さそうに歩いている。

DSC02090.jpg

◆茶屋跡の可能性がある丘の天辺に建つ一軒家

今でもハイキングに軽登山に街道ウォークなど、自身の足を駆使したレクリエーションが盛んであるが、昔は他の動力に頼るなどの選択肢が無かったに過ぎず、本来人間が移動する際の基本的な行動パターンは、どんなに文明が発達したとしても不変であるように思えてならない。

国家間や都市間の大枠では不特定多数の者を瞬時に移動させる必要があるが、ドアtoドアの末端は今日現在も二足歩行が主流であり、この先も人は歩く事を完全に止められないし、健常者でありながらウォーキングが非日常となった暁には、メタボ確定で気付かぬうちに死期が忍び寄る。

DSC02096.jpg

◆頂上から下りに転じてすぐの一軒家も茶屋の可能性有り

現代病の多くが運動不足に因るものとされている事から、自身の足だけが頼りであった時代に生きた人々は、難病奇病とは無縁であったのではなかろうか。今は生を授かった瞬間から楽な移動手段が確立されており、自転車から飛行機に至るまで、全ての乗物が楽に移動出来るような工夫が成されている。

鉄道を除く陸路を移動するほぼ全ての車両がゴムタイヤを履き、サスペンションとの相乗効果で快適な旅を約束する。しかしこの道を初めて車両が駆け抜けた当時は、車輪は鉄輪そのものでサスも装着していなかった。唯一の救いは路面が土道であった事だ。

DSC02095.jpg

◆頂点を極めた直後の十字路より田園地帯を突き抜ける

鉄輪サス無しで舗装路だと乗り心地の悪さは半端でないが、現役時代は最後の最後までバラスが撒かれる事の無かった旧街道筋は、柔らかい土質の路面がショックを吸収する役割を果たしていた。今の車両と比較すると心許無いが、それでも当時は歩かずに済むというのは、画期的な事であったはずだ。

路傍に立つ距岡山元標十五里の道標を確認した車夫は、道なりに神代川左岸へと移り田園地帯の真只中を駆け抜ける。やがて視界前方に山尾神社の鳥居を捉えると、最後の小高い丘を駆け上がるのに気合いを入れる。上り坂の距離は高が知れているので、エイヤッ!とやればあっさり到達だ。

DSC02097.jpg

◆高徳の丘を横這いに進む国道に成り損ねた街道筋

サミットには道路を挟んでニ軒の家が佇んでいる。それらがそこで江戸時代より代を重ねているならば、旅人に茶を振舞っていたかも知れない。特急便である人力車はスルーするであろうが、帰りの空車や大八車等は見晴らしの良い丘の頂上で一服していた可能性は大だ。

ただそのような牧歌的な風景も、明治の晩年には過去のものとなってしまう。神代川に沿って千代へ抜ける新道が完成し、アップダウンを余儀なくされる旧道は嫌われ、交通量は自然と減少に転じる。今と違い当時の街道筋は馬車の通行を許さなかったから、それも交通量減少に拍車を掛けた。

DSC02098.jpg

◆久米中学校の裏手を伝う備前街道は単なる通学路扱い

今でこそ街道筋は2トン車の通行を許す仕様に改められているが、新道に切り替えられた時分は、幅員1.5mあるかないかの際どい線形であったのは間違いない。桑下の中心や大邸宅の奥に現存する歩道以上車道未満の路が、出雲街道との交点まで続いていたと考えるのが妥当だ。

江戸時代の備前街道が畦道程度の狭さであるとすれば、現存する古道筋は明治になって車両通行に対応する為に拡張されている計算だ。十日乢にしても四ッ乢にしても、現存する備前街道筋はほぼ全てが車両通行に対応している。それらは人力車の出現という時代の要請によって拓かれたものである。

DSC02100.jpg

◆五差路より高徳の丘を振り返る

現存する古道筋にひとつとして徒歩道サイズの小径が見当たらない事からも、道標が設置された明治7年頃と前後する形で、道普請によって江戸道はバージョンアップし、人力車や大八車の移動が日常的になったものと僕は睨んでいる。

ただ街道筋がしぶとく生き延びたのも明治年間までで、ゼロベースで敷設された新道の前には全く歯が立たなかった。街道筋は坪井方面へショートカットしているが、無駄に上り下りする丘陵地帯が敬遠され、街道筋は人々の脳裏から忘れ去られた。

四ッ乢8へ進む

四ッ乢6へ戻る

トップ>四ッ乢に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧