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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>四ッ乢 |
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四ッ乢(6) ★★ |
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四ッ乢(よつだわ)の取扱説明書 これまでも歴代の地形図や古文書等に記載されない峠を発掘してきたが、またひとつここに新たな未知なる峠がコレクションに加わろうとしている。その峠道はかつて国道を名乗った時期がある伝説のルートで、道路史的価値はその他大勢の雑魚道とは一線を画す。表向きは単なる県道を装っているが、その実態は国道時代と歩道以上車道未満の二つの顔を持つ、一粒で二度美味しい希少物件で、一般的な名無しの峠となっている現場を住民は四ッ乢と呼ぶ。その道程は取るに足らない些細なものではあるが、一度は国道を名乗った以上、道路史的には絶対に外せない。十日乢と共に連続踏破する事で、かつて國道十九號を名乗った路線の全てを白日の下に晒す。 |
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◆備前街道の本筋ではないが代替線として最適な市道 峠付近に端を発する神代川と並走する県道の左手に、建って間もない道標を捉える。町史には粉砕した道標の一部が掲載されており、原型を留めぬ道標に代わるレプリカと思われる。石柱には距岡山元標十五里と刻まれ、同地点が岡山から58.9kmに位置する事を示している。 この“岡山から”という所がみそで、古くからこの道筋が岡山方面と密接に繋がりがあった事を想像させる。町史は粉砕した今は無き道標が、明治7年に設置されたものと断定している。既にその頃には岡山と久米の間で、直接的な交易があったのは間違いない。 |
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◆街道筋の一部は田んぼに転用され消滅している 岡山から福渡を経て打穴中の交点に達した者は、二手に分かれる甲乙付け難い路を間の当たりにし、無条件に右に舵を切った訳ではない。津山へダイレクトに滑り込む高清水峠は、原敬も迷わず越えた定石ルートであるが、二つの峠を経て久米や坪井を目指す者が少なからず存在した事を示唆する。 残念ながら道標が設置された明治7年当時の道筋は、一部区間が完全に消滅している。四ッ乢から国道181号線に至るほぼ全区間が、江戸道の上書きに次ぐ上書きと思い込んでいたのだが、実はその真逆である事を、古地図を照合させる過程で気付いてしまった。 |
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◆山尾神社の鳥居前を行く小径が備前街道の続き 県道筋は南畝⇒中畝⇒北畝とほぼ直線的に北上し、北畝地区を過ぎたところで両側が急崖に阻まれる狭い谷へと滑り込む。そこを擦り抜けると安定した田園地帯が待ち受けるが、一時代前は谷筋が大きな障害となっていたようで、備前街道は現経路と全く異なるルートを辿っていた。 その起点はレプリカの道標が建つ地点より少々北寄りに位置するが、街道筋の大部分は失われて久しい。かつて数多の人畜が踏み固めた道筋は、今日現在ほぼ全てが田んぼに置き換わっている。兵坂峠で旧県道と田んぼのトレードが成立しているのを目の当たりにしたが、まさにあれと同じ現象である。 |
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◆このT字路が一時代前は十字であったものと推察される 現県道筋は一貫して神代川の右側を北上するが、街道筋は道標を過ぎて間もなく川の左岸へと飛び移る。少なくとも古地図上ではそうなっている。しかし現場にその痕跡は認められない。正確を期せばそれらしき道筋は存在する。しかし街道筋と思わしき小径は、そう長くは続かない。 備前街道は所々で分断され有耶無耶となる上に、最終的には広大な田園地帯の下敷きとなり、その痕跡は完全に掻き消されている。再び街道筋が姿を現すのは山尾神社付近で、本来ならば十字路であろうはずの交点はT字路に置き換えられ、背後には広大な田畑が広がるばかりである。 |
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◆備前街道筋は山尾神社の手前で登りへと転じる 古地図と現在の地図を何度か見比べないと、街道筋と県道筋の違いには気付かないし、地図を片手に現場をうろつくと即消化出来るというものでもない。あらゆる可能性を排除せずに、周囲の道路をひとつひとつ潰して、田んぼの畦道を辿ってみたりして、何となく腑に落ちる程度のものでしかない。 散々現場をうろついておきながら、街道筋が確定出来ないというのもアレだが、何せ新旧道の切り替えが明治40年と古く、その後街道の一部が田んぼに置き換えられてしまっており、その置換の様子を知る者が存在しない為、レプリカの道標と山尾神社の間は推定ルートを導き出すのが関の山である。 |
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◆山尾神社を過ぎた坂道の途中右手に石造物を捉える 兎にも角にも一度は失われたはずの道筋が、山尾神社の手前で再び息を吹き返し北西に舵を切る小径が、備前街道である事を疑う余地はない。何故なら神社の鳥居を通過した直後の右手に、これまで道端に点々と置かれていた石造物と同様の物体が佇んでいるからだ。 しかもその表面には判読可能の文字が彫刻されている。左大仙みち、それが他所から移設されたものでない限り、街道の道標であるのは間違いない。左坪井とあるのがベストだが、行き先が大仙でも何等問題はないし、西日本随一の名峰が目的地とされているのが、いかにも江戸時代といった趣があって良い。 |
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◆左大仙みちと記された道標が備前街道の証 大仙とは今だと米子や松江を指すに等しい。この道標は備前街道が単なる久米村へ通じる道というよりも、出雲街道に合流した先の先を見据えている事から、その昔からそこそこ名の知れた要路であった様子が窺える。 当路線の後継は後に国道19号線を名乗り、岡山と松江を結ぶ主要国道として全国区の仲間入りを果たすが、それがけして偶然の産物でない事を、この道標が示唆していると感じるのは僕だけではあるまい。 四ッ乢7へ進む 四ッ乢5へ戻る |