教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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四ッ乢(5)

★★

四ッ乢(よつだわ)の取扱説明書

これまでも歴代の地形図や古文書等に記載されない峠を発掘してきたが、またひとつここに新たな未知なる峠がコレクションに加わろうとしている。その峠道はかつて国道を名乗った時期がある伝説のルートで、道路史的価値はその他大勢の雑魚道とは一線を画す。表向きは単なる県道を装っているが、その実態は国道時代と歩道以上車道未満の二つの顔を持つ、一粒で二度美味しい希少物件で、一般的な名無しの峠となっている現場を住民は四ッ乢と呼ぶ。その道程は取るに足らない些細なものではあるが、一度は国道を名乗った以上、道路史的には絶対に外せない。十日乢と共に連続踏破する事で、かつて國道十九號を名乗った路線の全てを白日の下に晒す。

 

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◆古道筋は上書きされ跡形も無いが多数の石造物が現存

元々の筋道が最適であったからなのだろうか、県道筋は街道時代から大きな経路変更が無い。十日乢に関してはゼロベースの新道が設けられたが、連続するもうひとつの峠は、八割方が街道を踏襲していると言っても過言ではない。現に県道の路傍には複数の石造物が散見される。

それらは十日乢旧道で目にした遺構群とそっくりで、石造物は道路脇に一定の感覚で置かれている。新設路線の路傍に古風な遺構が鎮座しているはずもなく、複数の石造物は街道筋を行き交う者をナビゲートする一時代前の道路付帯設備と思って間違いない。即ち現県道筋は街道を踏襲しているという事だ。

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◆歩道脇のデリネーターが歩道=旧道と訴える

県道はやり過ぎ感のある潤沢な歩道を備えるが、それが二車線化が試みられる前の県道そのもので、歩道なのに幅員が3mと広過ぎるのがその証左だ。1.5車線時代の県道脇に2車線の快走路を設け、本線切り替えの際に旧道を歩道に転用した為に、アンバランスな線形になっている。

歩道が歩道たる以前は県道であった証拠として、歩道の端に何故かデリネーターが認められる。そこがかつての県道の路肩で、本来は車道と歩道の間にあるはずのものが、車窓からは捉え難い場所に佇んでいる。昔からこの道を利用している者は、そいつが撤去し忘れたものである事を知っている。

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◆野呂街道と十字で交わる交点を地元民は四ッ乢と呼ぶ

歩道は大型車一台の通行を許す潤沢な仕様のまま峠に至る。同じ稜線でも距離を隔てた場所を跨ぐ十日乢と違って、この峠のは江戸時代から平成に至るまで、ほぼ同一地点を越している。細かい点は抜きにして、数百年の長きに亘り人々はこの十字路に轍を刻み続けている。

地元の婆ちゃんは語る、この付近に住む者はその昔からサミットを四ッ乢と呼ぶのだと。その名称はどの文献を紐解いても出てこない。歴代の地形図も然りで、前後の集落に於いても四ッ乢の名は一切聞こえてこない。本当にこのサミット付近のみでしか通用しない名称らしい。

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◆頂上に設置される停留所名は四ッ乢ではなく神代

四ッ乢とはズバリ四方向に通じる乢から来ており、桑下と久米を結ぶ県道が二方向を繋ぎ、それに十字で交わる路が院庄と北地区を結んでいる。不思議な事に人家は県道を横切る市道伝いに密集しており、一時期は稜線伝いの路の方が栄えていたのではないかとさえ思えるほどである。

事実その道は明治年間まで盛んに利用されたのだと町史は語る。現地の案内板も触れているが、頂上で県道と交差する横断線を野呂街道と呼ぶ。糘山の頂上脇を抜け院庄手前の山背に至る山道を一般に山背越といい、明治時代までは盛んに利用されたとある。

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◆峠を過ぎて少々走った地点に真新しい道標を捉える

町史は備前街道と野呂街道の交点を、丘の頂上や峠道の頂点という言い方に留めているが、聞き取りを行っていないのか信憑性を疑っての不採用かは定かでないが、四ッ乢という表現を一度も用いてはいない。それが的を射た適切な名称であるにも拘らずだ。

バス停に四ッ乢とあるのが理想だが、峠の停留所名は神代になっている。乢に端を発する川の名が神代川である事から、名無し峠の命名権一番乗りを急ぐあまり、割烹着を着用しやや寄り目で神代乢と先走ってしまう輩もいるであろうが、ネイチャーは誤魔化せても僕の目は誤魔化せない。

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◆粉砕した道標の代わりに設置されたレプリカ

頂上の停留所名が神代で、岡山では峠を乢と称する点を融合する事で、いかにもといった感じで説得力を伴うが、神代乢は地元の内外を問わずどこにも通用しない。しかし四ッ乢であれば今なら漏れなく通用する。野呂街道沿いの年配者であれば、四ッ乢の名称を共有出来る可能性が大だ。

ただ残念ながら四ッ乢の名は、地元の若い世代には引き継がれていないようで、峠付近でも人によっては全く通用しない。そもそも神代停留所付近を峠と思っている人がどれくらいのかは甚だ疑問で、現場は峠と認識出来ないくらいの微妙なアップダウンとなっている。

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◆備前街道を踏破するには狭い谷へ入り込む直前を左折

但し実走してみれば必ずや納得する。そこが紛れもない峠であるのだと。備前街道筋を踏破する者は、亀甲から久米にかけて二度の瘤を経験する。これは何と言われても覆し様がない。規模は小さいが大波小波を確実に越える事になる。

四ッ乢は意識していないと気付かないほどの小さな峠であるが、それは自然を支配出来るようになった明治以後の馬車道をなぞった場合で、新道の成立以前はそれ相応の難所であったのだと現存する備前街道筋は訴える。

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