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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>十日乢 |
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十日乢(20) ★★★ |
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十日乢(とおかだわ)の取扱説明書 視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。 |
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◆街道の雰囲気を色濃く残す畑を二分する狭隘路 御覧の通り田畑を二分する街道筋の幅員は極端に狭い。しかしながらそれは路の中央部分のみが舗装されている事による目の錯覚に過ぎない。路の両脇が石垣によって擁護されているが、その実幅は1.5m程を有し、物理的には軽自動車の通行を許す規格にある。 しかしながらそれは撫肩の路肩を含む数字で、実際に四輪での通行となるとミゼットでも慎重を期さねばならない。裏を返せばそれは備前街道が最後の最後まで自動車の通行を許さなかった証左で、極度に狭い道幅からして馬車の通行さえ不成立に終わったのは明らかだ。 |
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◆国道との接点のみコンクリートで全面舗装されている 国道429号線との交点付近のみが拡張され、軽トラやトラクターが進入出来る仕様にあるが、それは田畑への引き込み用であって、備前街道上を伝う為のものではない。休乢が明治36年まで馬車が通行不可であったように、十日乢もまた明治40年まで車両の通行を許さなかった。 打穴下の交点で二手に分かれた街道筋は、片や明治20年に馬車道が成立したのに対し、片や明治40年まで馬車の通行を許さなかった。原敬が高清水峠を越えた4年後には、皿川沿いの新道が竣成したが、十日乢はその後も20年間の長きに亘り、江戸道を騙し騙し使っていたのだ。 |
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◆電柱の裏に隠れる小さな備前街道の案内板を捉える とは言っても全ての車両が通行不可という訳ではない。人力車は明治のかなり早い段階で十日乢を越えている。それは打穴下で二分する片割れの高清水峠を人力車が越していた事実然り、人力車の通行が可能な備前街道の幅員然り、桑下に存在した帳場然りである。 国道をドライブしているだけではまず気付かないが、備前街道と国道429号線との交点には、手作り感全開の案内板が立つ。当地区の史跡を保存する会が設置したであろうその案内板は、不特定多数の部外者に街道の存在を訴えているが、通行車両の99%はスルーというのが現実だ。 |
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◆誰も気付かない十日乢を越える備前街道の終点 何せ日常的にこの通りを利用し、且つ道活歴20年のこの僕が今の今まで気付かないのだから、般ピーに備前街道の存在を認知させるのは至難の業だ。田畑を二分するパッと見徒歩道サイズの小径を車窓からチラ見しても、誰もそれを街道筋などとは思わないだろう。 上組から峠を越してきたからこそ田畑を貫く小径が街道のそれと認識出来るが、逆からだとさっぱり要領を得ない。ただ人力車はこの小径を伝って亀甲と久米の間を行き来していたのは確実で、少なくとも路線変更が成される明治40年までは、この頼りない小径が県道を名乗っていた。 |
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◆桑下地区東寄りの国道429号線新旧道交点 桑下集落の東側には道を齧った者であれば、大概は気付くであろう新旧道の交点がある。右の二車線路が現道で、左の狭隘路が旧道であるが、そのどちらもが一度は国道を名乗っている。右の路は今この瞬間も国道429号線の肩書を持つが、左の旧道も一時代前は国道を名乗っていた事がある。 国道19号線、左の路はかつてそう呼ばれていた。昭和28年の道交法改正で国道のポストからは外れたものの、大正9年以降30余年の長きに亘り、主要二桁国道として亀甲と久米の間を結んでいた。その前身は明治末期に新設された十日乢新道で、馬車道としてゼロベースで開削した期待の新道である。 |
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◆国道429号線旧道は大型車一台がやっとの狭隘路 新道とは言っても御覧の通りの有様で、大型車一台の通行がやっとの狭隘路である。元々が馬車道なので規格のショボさは否めないが、これでも江戸道に代わる期待の路として歓迎されたのは間違いない。津山街道から遅れをとる事20年の長期であるから、その待ち焦がれ様たるや半端ない。 明治20年に津山街道が県道一等として馬車道に改修され、その後を追う様に同31年には中国鉄道が開業し、岡山と津山を結ぶ縦貫線が陰陽連絡路として不動の地位を築いたのは明白であるが、それがすっかり板に付いた頃に激震が走る。主要道の大幅な経路変更が成されたのだ。 |
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◆増加一途の車両に対応すべく離合箇所が用意されている 沿線住民の誰もが国道昇格を疑わなかった岡山⇔津山ラインは、道路と鉄道の盤石な基盤を形成したにも拘らず、道路法改正の一件で既に確立されつつあった岡山⇔鳥取ラインは、思いも寄らぬ解体の憂き目に遭う。 一度決定が下された法律は、そう簡単には覆らない。どこの誰が言いだしっぺかは知らないが、ここ桑下は棚牡丹式に主要二桁国道の中継地と化し、一夜にして大動脈の一部を司る有力地へと躍り出た。 十日乢21へ進む 十日乢19へ戻る |