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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>十日乢 |
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十日乢(19) ★★★ |
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十日乢(とおかだわ)の取扱説明書 視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。 |
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◆パッと見はT字路だが山道にはまだ続きがある 十日乢新道=明治40年竣成 現場は変則の十字路となっているが、1/5地形図でみるそこは綺麗な十字を描く。丁度一車線分のズレがあるが、大雑把な地図では直線扱いとなっている。ここが江戸時代及び明治年間に於ける桑下の中心地である。 縦貫線の備前街道に対する横断線の西川街道が、一等里道として明治36年に車道が拓かれたのは、休乢の頂上に設けられた石碑が語っている通りで、それとほぼ同時期に十日乢は新道に切り替わっている。 |
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◆道幅は豪い狭いが単なる歩道にしては広い 休乢では明治36年まで江戸道を梃入れした暫定車道を伝っていた。その事実を踏まえると、十日乢にも同じ事が言えるのではないか。それを裏付けるものとして変則の十字路を抜けた先の街道筋が極端に狭まっている点が挙げられる。御覧の通り十字路の先がむちゃくちゃ狭いのだ。 これが人畜のみが行き交う時代の代物である事は間違いないが、同時に明治年間のほとんどをこの狭隘路を駆使して、ありとあらゆるものが往来していた事実を証明している。何故なら明治31年測量同34年発行の地形図には、この十字路を貫通する路が本線として描かれているからだ。 |
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◆力車道を彷彿とさせる歩道以上車道未満の狭隘路 それはこの軽自動車一台が通れるか否かの狭隘路が、明治30年代に入っても尚本線として供用されていた事を意味する。その頃はまだ十日乢新道の影も形も無い。あるのは古来供用される備前街道と西川街道のみである。両者共に江戸道に手を加えた路を、騙し騙し使っていたのだ。 西川街道の最難所である休乢が明治36年に新道に切り替わり、その後を追う様に備前街道は明治40年に本線の移設が完了した。両者は明治の晩年になってようやく馬車道が日の目を見たが、その日まで江戸時代宛らの様相を呈していた訳ではない事を、我々は休乢の一件で思い知った。 |
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◆大邸宅前は思いっきり街道の雰囲気が残る こうして町中に残る備前街道を直視すると、山中に現存する街道筋の大方が、現代風にアレンジされている事に気付く。十日乢越えの路の大半が、軽自動車どころか普通車や2トン車クラスでも通行可で、それは間違いなく後年に拡幅されたものであり、ほとんどが江戸道の原型を留めていない。 尤もこの界隈に人力車が出現した明治黎明期には、既に微妙な梃入れが成されてはいるであろうが、たった今僕が辿った山道は後年町道として整備されたもので、明治初期に実行されたであろう一次改修の1.5倍の幅員を有している。町道として拡張される以前は、この狭隘路が常識的な路であったのだ。 |
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◆邸宅前より先の舗装路は一回り狭まり歩道サイズと化す それにしてもこの道は豪い狭い。十字路の滑り出しこそ軽四でも何とか通れると思ったが、人家が途切れた辺りから先は、どう考えても畑への脱輪は免れない。簡易舗装されている部分だけで言えば、完全に車道の概念を逸脱している。一般目線で言えばこれは明らかに歩道である。 少なくともこの小径を見て誰も車道などとは言わない。明治40年に新道に切り替わったとすれば、自動車が走った例がないのは勿論、馬車も通った事がないというのが実情であろう。ならばこの小径を辿ったのは人畜に限られるのであろうか?違う。間違いなくこの小径を車両が駆け抜けている。 |
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◆畑を貫通する峠道の道床側面に古風な石垣を捉える 僕等はそれを休乢で学んだ。一見するとただの歩道であるが、視点を変えれば全く違ったものが見えてくる。単なる歩道に石垣など不要である。しかし備前街道は田畑とは一線を画すように、50cm前後の底上げが成されている。これが最近の仕様でない事は、石垣の型を見れば一目瞭然である。 道幅的には車両の通行を許さぬが徒歩道にしては強固な造り、これが何を意味するのを我々は心得ている。人力車、そいつをスムーズに通さんが為に、田畑を貫通する築堤が設けられたのだ。仮にこの土木構造物が江戸時代の遺構であるならば、それはそれで貴重な財産であり観光資源である。 |
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◆パッと見は歩道サイズだがミゼットの通行を許す狭隘路 一応僕はこれまでの経験則から、道床側面の石垣は明治初期に補強したものと見立てているが、江戸時代のものをそっくりそのまま引き継いだ可能性も否定できない。兎にも角にも明治40年頃まで本線を担ったこの通路を人力車は駆け抜けた。 視界前方には国道429号線が待ち構えているが、その遥か先にはなだらかな稜線が立ちはだかり、その最も窪んだV字目掛けて備前街道筋は突き進む。ここ桑下はあくまで中継地点に過ぎないのだ。 十日乢20へ進む 十日乢18へ戻る |