教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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十日乢(18)

★★★

十日乢(とおかだわ)の取扱説明書

視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。

 

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◆峠道の本線は慈恩寺前の四差路で右に弧を描く

慈恩寺へ通じる市道との交点には、小さな御堂と常夜灯が設置されている。寺の境内まで足を運ぶ者もそうでない者も、峠下に当たるこの四差路の御堂前で、必ず一礼していたのではなかろうか。少なくともこの山道が現役の頃は、そのような光景が日常的に見られたはずである。

本線はこの四差路で右に大きく折れ曲がり、桑下の中心へと直線的に雪崩込む。峠を越して来た者であれば、本線がどれなのかを見分けるのは容易いが、その逆だと旧道筋を見極めるのは難しい。かつての本線がその他大勢の支線に同化し、素人のパッと見では判断が付かない。

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◆かつての本通りを象徴する木造の公民館を捉える

その昔は完全なる一本道に畔のような小径が毛細血管の如し枝分かれしているに過ぎなかったであろうが、今やその小径の一本一本が山道と同等の規格を有し、峠道が堂々の主役を張った面影は無い。かつて備前街道と呼ばれたその道筋は、四差路の先を右に90度折れ曲がる。

集落内に入っても尚沿道の人家は疎らであるが、桑下の中心地はもう目と鼻の先にある。左手には役目を終えて久しい公民館が佇んでいるが、縦横無尽に走る似たり寄ったりの市道の中にあって、きちんと山道の延長線上に建てられている点が、かつての街道筋である動かぬ証拠と言える。

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◆峠道は倭文川を一跨ぎし桑下の中心へと滑り込む

慈恩寺の四差路より先は平坦な田園地帯を貫き、旧街道筋は倭文川に差し掛かる。この橋を跨ぐとそこはもう桑下の中心街だ。出雲街道や津山街道がそうであったように、ここ備前街道もまた明治黎明期には人力車が駆け抜け、打穴下より十日乢を越してきた車両は、桑下の帳場へと滑り込んだ。

町史によると備前街道と西川街道が交差する桑下は、正式な宿場ではないが、その機能を有する交通の要衝として栄えたのだという。桑下の繁栄を象徴するものとして、大正の終わり頃まで存在したという帳場が挙げられる。帳場は一定の規模を有する地区にしか成立し得ない。

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◆現役の頃は木造橋であったと思われる短橋梁

乗客の数は単純に人口密度に比例するから、ある程度の規模の町でなければ帳場そのものが成り立たない。この界隈であれば坪井・院庄・亀甲に帳場はあったが、そのいずれもがかつての宿場であるとか、鉄道の停車場が設置されるなど、人が自然と集まる拠点である。

桑下は鉄道空白エリアで駅舎もなく、また正式な宿場でもないが、現実として人力車の溜まり場が存在した。この事は桑下が宿場に準ずる拠点であった事を裏付ける。明治初期の時点である程度の利用者がいたと同時に、リレー形式による人力車の乗継が行われていたものと推察される。

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◆橋を渡り終えた直後にぶつかる国道429号線旧道

亀甲と桑下の間は峠を介しているものの実距離は短く、一人の車夫で出雲街道筋まで行けそうな気がしないでもない。体力的には剛腕車夫でなくとも持ち堪えるかも知れない。しかし実際には到達時間が問われるので、急用であればあるほど桑下でバトンタッチした方が賢明だ。

小さな橋で倭文川を跨ぐと、変則的な十字路に差し掛かる。現在はひっそりと静まり返っているが、そこがかつての繁華街である事を知る者は少ない。国道429号線がまだ県道を名乗っていた時分の旧県道であるが、その前身は休乢を越える西川街道で、この交点で二つの街道筋がぶつかる。

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◆国道429号線旧道との交点に佇む判読可能な道標

その角には行き先が示される道標が佇んでいる。右が津山で左が西川と記された道標は、まさに十日乢を越してきた者にとっての案内板で、備前街道に対する横断線が休乢越えの西川街道と訴えている。本線はこの十字路を突っ切って、もうひとつの丘を越えて出雲街道筋に達する。

今でこそ県道159号線は国道429号線との重複区を経て、二車線路同士がぶつかる快走路に生まれ変わっているが、かつては1車線と1.5車線が交わる小さな交点を経て、桑下地区を南北に縦貫していたのだ。その状態が明治40年頃まで続いたのだと町史は語る。

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◆変則の十字路となる国道429号線旧道との交点

町史は備前街道筋が国道を名乗ったのは、明治40年頃から戦後しばらくと定義しているが、桑下経由の路が国道の肩書を手に入れたのは大正9年であり、それ以前は県道の域を出るものではなかった。

ならば明治40年とは何を指しているのか?恐らく新道に切り替わった時期であろう。現在の159号線筋が成立した年、即ち十日乢新道が産声を上げた年である可能性が大で、町史は新旧道の路線切替時期を指しているものと思われる。

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