教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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十日乢(16)

★★★

十日乢(とおかだわ)の取扱説明書

視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。

 

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◆丹沢五兵衛碑と称される杉林の中に鎮座する巨石

この峠道にはやたらと石造物があるのだが、この丹沢五兵衛碑も沿道に散見される石のひとつで、倭文地区誌によれば高過ぎる年貢の減免措置を領主に懇願した農民の代表者で、残念ながらその意見は却下され、丹沢五兵衛は処刑されたそうな。その鎮魂碑であるという。

その当時の山道は岡山へ通じる主要路として、高清水峠に勝るとも劣らない街道筋であったから、村人の誰もが常日頃から目にするであろうこの道沿いに、彼の行動を称え石碑を設けたのだろう。倭文地区誌では十日乢が藩の処刑場跡とされているが、そこで処刑が行われた事例は認められないという。

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◆墓地以降はバラスが撒かれた砂利道となっている

何だかきな臭い話であるが、十日乢を処刑場とする事には無理がある。分水嶺である追分より東側に住む者は、間違いないなくこの峠が岡山への常套コースになる。坪井や桑下といった拠点を経て、多くの民がこの峠道を行き交うのだから、その道中に処刑場というのは、見せしめ以外の何者でもない。

そんな事をしたら現代であれば藩主のブログは炎上確定であるし、町民の噂話に尾鰭が付いて炎上ビジネスと言われかねない。尤も藩主に楯突けば切腹という時代であったろうから、サミットに落ち武者の生首が晒されていたとしても、別に!と冷静な対応が出来たのかも知れない。

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◆峠にあったものが移設されたのか御地蔵様を捉える

峠道では御地蔵様の定位置はサミットと相場が決まっているが、ここ十日乢ではそのような既成概念が通用しない。集落の外れ付近まで下り切ってから、雨避けが施された御地蔵様が視界に飛び込んでくる。峠区のみで石造物は十指に余る勢いで、改めて十日乢が街道筋である事を思い知らされる。

但しこの峠道は人畜のみが行き来した純粋な江戸道ではない。その頃の道は砂利道の下敷きになって久しい。僕が辿ってきた山道の大方は江戸道を踏襲してはいる。しかしながら峠道は全線が完璧な車道規格へと刷新されている。それは今に始まった訳じゃない。

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◆視界が大きく開けた地点でダブルトラックが鮮明になる

今から遡る事100年以上の前に、その基礎は出来あがっている。厳しい峠ではないから、山道はそっくりそのまま江戸道と思って間違いない。それが明治の何時かに拡張されたのだ。その際に最も大きな改変を伴ったのがサミットで、乗越から切り通しへと変更されている。

恐らく人力車は乗越でも間に合ったはず。頂上付近の前後がきついと言っても高が知れている。稜線を掘り割ったのは馬車や荷車に対応させる為で、備前街道が明治の早い段階で拓かれたとは考え辛いが、明治20年代前半にはほぼ現状と同等の規格にあったものと思われる。

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◆竹藪の先には目立った障害物が見当たらない

打穴下の交点で二手に分かれる津山街道が、明治10年代後半から新道建設が始まり、津山との間に立ちはだかる高清水峠の難所を解消したのが明治20年であり、同31年の地形図には皿川沿いの新道と十日乢とが、ほぼ同規格の路線として描かれている事から、改修は前後しているとみるのが妥当だ。

十日乢が皿川沿いの新道に勝るとも劣らない路線である事は、後に国道19号線として陰陽連絡線の顔になっている事からも明らかだ。恐らく明治期に於いて津山街道と備前街道は甲乙付け難い存在で、時勢によりどちらが主役を張ってもおかしくはない関係にあったと考えられる。

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◆竹藪を抜け出ると路面が未舗装から舗装路に切り替わる

その山道が今でも貫通している事を証明する瞬間がやってきた。御地蔵様を捉えると同時に、山道は墓地の脇を擦り抜ける。そこでいよいよ集落が近付きつつあると感じ、竹林を抜け出た先には舗装されて間もないアスファルトが待ち構え、下り坂を利して第一人家へと勢いよく滑り込む。

その昔は人力車も僕と同じように駆け足で桑下集落の外れへと抜け出たと思われ、いまだに未舗装の山道から飛び出した時の印象は、現役時代とほとんど変わらないのではなかろうか。バラスが撒かれているいないの違いはあるが、峠道は明治期の状況をほぼ維持している。

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◆路面が舗装路に切り替わってすぐに第一人家を捉える

人力車に荷車に馬車が駆け抜けたであろう山道は、視界前方に広がる桑下の集落へと繋がっている。そこが宿場と同等の位置付けにあったのだと町史は語る。そうりゃそうだ、西川街道と備前街道がぶつかる交通の要衝なのだから。

今でこそ本線は何の障害もないお気楽コースになっているが、かつては鬱蒼とする樹海を彷徨う寂しい道程であったのだ。その頃を知る者は絶えて久しく、また口頭による伝承も代を重ねる毎に希薄となっている。

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