教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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十日乢(12)

★★★

十日乢(とおかだわ)の取扱説明書

視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。

 

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◆規格では林道の方が上回り町道は脇訳に甘んじている

御覧の通り頂上の平坦部分は、四輪一台分と著しく狭い。非常に緩やかな勾配で峠に至る過程と比して、この上り詰めたと思ったら直ちに下りへ転じる頂上付近の忙しさは、どうも腑に落ちない。十日乢は稜線を直に乗り越える乗越状にあるのだが、何かがおかしい。しかしその原因は分からない。

美咲側は一般車でもギリギリ許容範囲であるだが、津山側に至ってはドライバーはひっくり返るような感覚に襲われるのではないかと危惧するほどの傾斜で、このイレギュラーな線形が別の場所に新道を設ける動機となった可能性もあるが、現場の状況には妙な違和感を禁じ得ない。

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◆津山側の続きは急勾配の坂で誰もが進入を躊躇う仕様

稜線上の未舗装路から津山側を眺めると、一般車だととても進入する気になれない危うい支線にしか映らず、これを目の当たりにした大方のドライバーは間違いなくこう思うだろう。何かあった際に果たして戻って来られるのかと。頂上手前の急坂を自力で克服出来るのかと。

四輪駆動であればとりあえず突っ込んでみるというチャレンジも出来るが、峠道の続きは般ピーが気軽に進入出来るほど甘くはない。だいたい下界から稜線伝いの林道を伝ってきた者が、どこかへ抜けているのかさえ分からないこげな怪しい道に、ホイホイと突っ込むようなリスクを冒すはずがない。

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◆津山側は激坂に加え複数の溝が縦横無尽に走る

敢えて津山側の急坂に挑むとしたら、それは上組から古道筋を忠実に辿ってきた者で、更にJAF等に応援要請をせずとも、ウインチ等を駆使して自力で脱出出来る自信のある猛者に限られる。急坂の両脇には深々と抉られた溝があり、路面には雨水が付けたと思われる亀裂が走っている。

一般道しか経験のない者からすればコンディションは最悪で、かなり度胸のいるチャレンジコースとなっている。この急坂のみ分厚く砂利が敷き詰められているが、それは土道のままだとタイヤが滑ってしまうからで、不気味なのはそこにタイヤ痕が一切認められない事である。

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◆頂上で横倒しになっている道標らしき石造物を捉える

津山側は誰も足を踏み入れていない、そのどうしようもない現実がチャレンジャーの意欲を著しく萎えさせる。しかしそれは四輪で挑んだ場合であって、単車にとっては痛くも痒くもない。しかも機動力が格段に増したヘナリワンチビにとっては、朝飯前のお散歩コースのようなものだ。

十字路の片隅には道標と思わしき石塔が転がっていて、そいつが稜線伝いにあるという事は、やはり十日乢越えの路は古来乗越状にあり、その難所が嫌われて現県道筋である新道が敷設されたとの結論に至ったが、それが間違いであると気付くのにそれほど時間は掛らない。

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◆津山側は一定の空間が保たれるもタイヤ痕は皆無

切り通しだ、現役時代の十日乢は切り通しになっていた。稜線上の新設林道が敷設されるまでは。その事実に気付いたのは、津山側の急坂を精査していた時である。初見で感じた疑念を払拭出来ずにいた僕は、現場の状況を具に観察した。すると急坂の両脇にある窪みが単なる側溝で無い事を知る。

道路の路盤に見え隠れする土質と、露出する山林の地肌とが全く異なるのである。そして津山側は30m弱の急坂より先は、非常になだらかな緩い坂道となっていて、稜線の直前だけが何故か跳ね上がっている。何故そのようなイレギュラーな線形になったのか?それは切り通しを埋めたからだ。

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◆100m程進入した地点で待避所らしき膨らみを捉える

正確を期せば切り通しを埋め戻したという事になる。稜線上に石塔が転がっているように、確かにその昔の峠道は稜線を直に跨いでいた。それは人畜のみが有効の江戸時代の話である。しかし時代の要請で十日乢の天辺は掘り割られ、車両の通行を許すように改められた。

元々は現在のように峠の直前が急坂になっていた可能性は高い。その状態でも人力車は十分対応出来るので、明治黎明期はまだ乗越状で供用していたのかも知れない。しかし後年馬車通行に対応すべく稜線は5m前後掘り下げられ、馬車の往来を許す仕様に改善された。

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◆複数の倒木によって大多数は引き返しを余儀なくされる

稜線伝いに林道が通されたのは、戦後もかなり経ってからであろうから、十日乢は長らく切り通しの状態を維持していたに違いない。切り通しに橋を架け林道がオーバーパスすれば、今頃我々は十日乢の切り通しを拝めた事であろう。

しかし実際には切り通しは埋め戻され、十日乢は掘割以前の状態に還っている。それをただ単に残念と悲観する必要はない。何故なら掘割の埋め戻しは、この峠道が100年以上も前に一度は車道として拓かれた動かぬ証拠であるからだ。

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