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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>十日乢 |
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十日乢(7) ★★★ |
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十日乢(とおかだわ)の取扱説明書 視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。 |
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◆県道70号線との重複区で最大のカーブが山道の起点 十日乢には互いが干渉しない二つの乢が存在する。その事に気付いたのはつい最近の事で、出雲街道を探求するようなってからである。以後この界隈の古地図には事ある毎に目を通してはいたが、僕は十日乢の存在に全く気付かなかった。何故か?それは過去のどの地形図にも峠名が未記載であるからだ。 歴代の地形図に峠名が一度も記載された例が無いのだから、はっきり言ってどこに峠があるかなんて分かるはずがない。私に今どこが戦闘地域でどこが非戦闘地域か聞かれても分かるはずがないと主張する小泉元首相宜しく、峠の在り処が分からない事の正当性を、僕は自信満々に主張する。 |
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◆カーブの隅には久米村近道と彫り込まれた道標が鎮座 しかしだ、全く見当が付かないのかというと、そうではない。恒常的に県道159号線を利用する僕は、山の天辺で市町界を跨ぐ県道筋が、実は市民権を得ている他の物件と同様の真っ当な峠なのではないかと、密かに疑っていた。それは実走から得た感触であって、明確にそれを説明出来るだけの証拠は無い。 県道70号線と国道429号線を結ぶ県道159号線は、規模は小さく勾配も緩いが明らかに峠の形を成している。官民を問わず過去に発行されたどの地図にも峠名は記載されていないし、地元民も峠名は知らぬ存ぜぬの一点張りである。この世には誰一人峠名を知る者はいない、そう思えてならない。 |
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◆上組のカーブよりこれより挑む峠方向を望む 実の所本当に名無しの峠のかも知れないし、峠名以前に誰も市町界を峠とは思っていないのかも知れない。しかし僕は声を大にしてこう言いたい。現場は間違いなく十日乢であると。仮に現在の峠がトンネルで抜けていたならば、その名称は十日トンネル、或いは十日乢トンネルになったものと信じて疑わない。 その根拠が県道70号線と県道159号線の重複区に於いて、最も見通しの良くない急カーブを描く上組地区の交点にある。現場は旧山添橋の上流域400m地点で、見通しの悪いカーブから町道が枝分かれしているのだが、その交点に一体の石造物が置かれているのを、僕は見逃さなかった。 |
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◆町道に入ってすぐに打穴川を一跨ぎする小さな橋梁 かなり年季の入った石造物であるが、彫り込まれた文字は辛うじて判読可能な状態にある。その表面に踊る文字をみて、僕は思わず小躍りしてしまった。久米村近道、そう彫り込まれている。近道ってもすかして・・・期待してもいいかな?いいとも! 久米村近道 恐らく土地勘のない者に久米村近道と言ってもあまりピンと来ない。実際に僕も瞬時に要領を得た訳ではない。ただ僕の場合は近道という点が重要なキーワードであった、何故なら現道に対する旧道である可能性が高いとみたからだ。 |
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◆橋梁には影田橋の銘板が備わり架設年は不明 抜け道が旧道である場合が往々にしてある事は述べたが、近道というのもまた旧道という事例が多々ある。人畜のみが有効の時代は最短距離が重んじられ、高低差を無視した道路が当たり前に存在した。ところが車両が主役に変わると、多少の遠回りは已む無しと迂回ルートが設定される。 それは代を重ねる毎に距離が延びる傾向にあり、距離損の新道を嫌って古道筋を伝うという例は五万とある。現県道筋が新道であると仮定すれば、近道と称されるこの道筋が旧道である可能性は十分有り得る。現に僕は現県道筋に旧道の残骸がほとんど見当たらない点に、大いなる疑問を感じている。 |
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◆町道は橋梁のみが狭く他の幅員は3.5m前後を有す もしもこの小径が現在の峠道に対する旧道であるならば、僕が覚えた違和感は完全に払拭される。実はその可能性が大だ。何故なら石造物にある行き先が久米村となっていからだ。久米村とは昭和29年末まで存在した自治体で、昭和30年に周辺の町村と合併し、平成17年までは町を名乗っていた。 平成の大合併で津山市に編入され町名は消滅したが、かつての町名はあらゆる所で継承されている。その代表格が吉井川の支流である久米川であり、道の駅久米の里である。道の駅は国道181号線沿いにある事から、旧久米町がどこに位置するかは大凡の見当は付く。 |
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◆道なりに進むと10軒あるかないかの小集落を抜ける 久米川と出雲街道が並走する地域で、駅で言えば美作千代付近を指し、石造物はそこへの近道だと言っているのである。久米村は昭和29年に消滅しているから、石造物は間違いなく戦前に設置されている。 しかも石造物が道端に置かれた頃には、既に新道が成立していたとみていい。何故なら遠回りの道という比較対象があって、初めて近道と優位性を主張できるのであって、そうでなければ近道アルヨ!は怪しい中国人の客引きと同じだからだ。 十日乢8へ進む 十日乢6へ戻る |