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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>十日乢 |
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十日乢(6) ★★★ |
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十日乢(とおかだわ)の取扱説明書 視界前方に待つ高台のピークまで上り詰め、そこから直ちに下りへと転じる車道に出会った際には、勾配の緩急や高低差の如何に関わらず、僕はいの一番に峠の存在を疑う。そこが行政界を隔てる領界線上にあれば尚更で、例えそこが名無しの峠であろうとも、そんな事はお構いなしだ。紙上に刷り込まれた峠名も大事だが、やはり現場が峠の形を成しているか否かが肝である。予てから津山市と美咲町の市町界を跨ぐ丘越えに等しい路を臭いと睨んではいたが、一体全体何が臭いのかはさっぱり要領を得なかった。しかし出雲街道を追及する過程で芋蔓式に出て来たのが、何とも得体の知れない古道筋であった。後々その峠道が当該エリアでは十日乢と呼ばれている事を知る。また歴代の地形図に描かれる事のないその峠道が、出雲街道と無縁ではない事も。恐らく当報告書を読み終えた暁には、誰もが水野晴郎と化すに違いない。いやあ道路ってほんといいもんですね!と。 |
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◆左岸道路が砂利道であった県道時代を知る地元の古老 おお、この道かい?この道は昔の県道だよ。今は川の向こう側を通っているけど、それまではこの道を通って岡山へ行ったり、湯原や蒜山に行ったりしてたんだ。 打穴川左岸道路=旧県道 山添橋を渡り県道159号線と並走する1.5車線路は、対岸の新道が成立する以前に使われた旧道であるという。残念ながら古老の口から国道の二文字が発せられる事はなかったが、この狭隘路が旧県道である事だけは確定した。 |
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◆草臥れた制限標識は県道の置き土産 道が向こうに移っても、しばらくは砂利道だったな。あの頃は車同士の擦れ違いが出来んで、皆苦労しとったね。今よりも車の数はずっと少なかったから、何とかなってはいたが、大きいのが来るとどうにもならんかった。 大型車が来ると一溜まりもない、それは舗装化以外に目立った変化がないと思われる旧県道の現状を見れば頷ける。普通車同士でもまともに離合出来たとは思えない道幅であるから、大型車だと自転車や歩行者との擦れ違いも難儀したであろう事は想像に難くない。 |
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◆左岸道路が県道であった事を示すデリネーター 9トンと刷られた制限標識は、その草臥れ具合からほぼ間違いなく県道時代の置き土産である。町道に格下げされた時点で、紛らわしい標識類の一切合財が取り外されたのであろうが、そのまま流用可能なものだけが撤去されずに済んだ結果、重量制限標識だけが残ったのだろう。 と思ったらなんと道端にデリネーターがあるではないか。この旧道区間に於けるデリネーターは、後にも先にもこれ一本しか認められない。路の両脇に全神経を集中して遺構を拾い上げるも、はっきりと県道跡を示す物証は、こいつが最初で最後であったが、証言と物証が揃った点は大きい。 |
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◆元県道だけあって待避所がふんだんに用意されている 町道にしては無駄に多い離合箇所、草臥れた制限標識、岡山県と刷られたデリネーター、元県道であると言い切った古老の証言、これだけ直接間接を問わず証拠が出揃うと、この道筋が旧県道でないと訴える事の方に無理がある。しかもこの道は現県道の抜け道にもなっている。 地元ドライバーの嗅覚は侮れない。彼らが無意識のうちに利用する抜け道は、旧道である場合が少なくない。特にきびきびと軽快に動く軽トラなんかは、地元民しか知らないような細い路地を繋いで走るから、そういう車両の後を追いかけると、完璧に旧道筋をなぞっているなんて事も日常茶飯事である。 |
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◆県道159号線の新旧県道交点にして国道19号線筋 正規ルートを通らずに打穴川左岸ルートを爆走する車両は、この交点の直前で速度を一旦緩めるも、一時停止をするフリをしてチラッと右手を確認して車両がいないと分かるや否や、再加速して乢を目指す。その逆も然りで、方向指示器を出さずしてナチュラルに左岸道路へと滑り込む。 彼等にとってこの狭隘路は単なる町道ではなく、交通量が激減して走り易くなった県道なのだ。何も知らない部外者からすれば単なる抜け道に過ぎないが、この狭隘路がかつての乢道である事を一部の地元民だけが知っている。逆にこの道を利用する大方の者は、正規ルートしか知らない。 |
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◆現県道の橋の銘板には旧道と同じ山添橋とある 新旧道の交点より50m先には、正規ルートの橋が架かっている。旧橋とは異なる橋名が命名されている、或いは新山添橋と刷られているかのどちらかと睨んだが、実際はそのどちらでもなく、現県道の橋には山添橋の三文字が躍っている。500mの距離を隔てた二つの橋梁が、同じ橋名を名乗っているのだ。 山添橋を名乗る現県道筋の橋梁を、便宜上新山添橋と呼ぶ事にする。この橋の銘板には竣工年が昭和49年2月とある。これを鵜呑みにすれば昭和40年代末に、打穴川左岸から右岸へと路線切り替えが成された事になる。新山添橋は遠目からだと築浅物件に映るが、既に40年選手のベテランだ。 |
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◆昭和40年代末に架設されたと主張する新山添橋の銘板 実際に近寄ってみると新しさと古さが同居しており、昭和中期製の量産型から次世代型へと脱皮する移行期の体を成し、完成度は高いがパッと見昭和を引き摺っているのと、一時代前のコンクリ製特有の脆さを内包している。 旧山添橋の銘板には昭和50年3月竣工とあるので、県道の路線切り替え後に架け替えられ、古老が先代もコンクリ製であったと主張する旧橋は、とっくの昔に消滅している。その点については旧旧道にも同じ事が言える。 十日乢7へ進む 十日乢5へ戻る |