教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(22)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆獣避けを潜ると路面にはダブルトラックが認められる

勝山自動車史上最悪の事故は、大正14年7月12日に発生している。その系統は勝山より新庄川を遡行し荒田で折れ曲がると、月田を経て富原より傍示乢を越え刑部へ至る。その路線は鉄道が通じる昭和5年まで現在の県道32号線筋を伝い、勝山と大佐の間を連絡していた。

その系統は勝山自動車でも後発であるというから、杉ヶ乢を越えるバスは当然それ以前から走っていた事になる。勝山自動車が産声を上げたのは大正11年で、その際先発隊として投入されたのが新庄線で、刑部線が荒田廻りであるのに対し、新庄線は杉ヶ乢を経由している。

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◆S39年に大八車が乢を越えていたと証言する婆ちゃん

既にその頃には杉ヶ乢が自動車通行に対応していたのだ。しかし杉ヶ乢に公共交通機関の灯が燈るのは、大正11年ではない。それ以前の乢道にバスを走らせた者がいるのだ。美伯自動車組合なる団体がそれだ。勝山銀行の一階を車庫スペースとして利用し、津山と新庄の双方にバスを走らせた。

中古のイタリア製ヴィアスを二台仕入れ、運転手はわざわざ東京から引き抜いてきたという。新庄線は大正9年に運行を開始しているから、大正一桁の時点で乢道は自動車の通行に耐え得る仕様に改善されたとの見方が妥当だ。その改修に於いて大正8年に発布された法律第五十八号は無視出来ない。

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◆集落に入っても未舗装のまま滑り込む旧旧国道

大正8年4月10日に発布され、同9年4月1日付で施行された道路法、所謂旧道路法が杉ヶ乢の改変に大きく関わっている。改正前の杉ヶ乢は国道24号線を名乗っており、我が国を代表する路線のひとつであった訳だが、その肩書と実態との乖離が甚だしい事は、再三に渡り述べてきた通りである。

明治末期の時点で大八車も荷車も人力車も、杉ヶ乢を越える際には例外なく馬の鼻引きを要し、車両という車両が自力による登坂が叶わなかった。国道とは名ばかりで実態が伴っていないのだ。その影響をもろに受けていたのは地域住民であるが、それ以外にもズタボロ道の現状を憂う者達がいた。

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◆昭和17年度末まで国道三等を名乗った江戸道

軍部である。明治40年には軍用車両の開発を目論んでいた軍にとって、有名無実な著名道路ほど厄介なものはない。車両がひっくり返そうになるくらいの激坂、幹線なのに人力車の通行がギリギリの小径、一雨降ると泥濘と化す悪路といった大凡実用的とは言い難い路が、列島全域にまかり通っていた。

明治の地図は車両の通行が非現実的な小径が、あたかも真っ当な路として描かれているのだから、地図は全く当てにならない。それは官民軍を問わず非常に厄介な問題だ。地図を見て誰もが一発で状況を把握出来るのが望ましい。従って利害は一致している。道路法の改正を拒む理由は見当たらない。

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◆集会所の正面を抜ける普通車一台がやっとの狭隘路

大正9年に杉ヶ乢は国道19号線に指定され、その際装いも新たにスタートを切った事は、同年美伯自動車の乗合自動車が勝山以西に公共交通の先鞭を付けた事からも明らかだ。だが同社は意外な程の短命に終わる。津山の同業者に買収されたのだ。それと入れ替わりで登場したのが勝山自動車である。

法律が先か改修が先かは定かでないが、まさか自動車を馬の鼻挽きで引っ張り上げるというダチョウ倶楽部も真っ青の曲芸は考え辛いから、早ければ大正の半ば、遅くとも大正9年の春までには、杉ヶ乢の二次改修を終えていたはずである。それは丁度勝山界隈にトラックが出現した時期に重なる。

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◆赤いトタン屋根の古民家が下茶屋と指摘するおばちゃん

道路法の改正が声高に叫ばれる以前に、必要に迫られて乢道を整備した可能性も十分考えられるが、ひとつだけはっきりとしているのは、大正9年に初めて杉ヶ乢を越えた乗合自動車が、人力車に鼻挽きに茶屋といった乢道に根付く職業を衰退させた元凶であるという事だ。

ある者にとって乗合自動車は正義でも、それを諸悪の根源と憎む者達がいる。自動車が疾走しだしてもしばらくは共存する事になる馬車や荷車や大八車に携わる者も同じ感情を抱き、後方から追いついた車がクラクションを鳴らそうものなら、聞こえないフリをして避けなかった者も少なくなかったという。

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◆下茶屋(しもんちゃや)へと滑り込む元国道三等

江戸時代は五街道に準ずる大道として整備され、明治になると直ちに国道三等に指名され、国道24号線から国道19号線とエリートコースをひた走る出雲街道が、自動車の通行を許さぬまま昭和を迎える事など有り得ない。

明治20年代に馬車の通行を許す新道が、雨後の筍の如し勃興した点を踏まえれば、大正になっても尚鼻挽きなる旧態依然とした慣習が継続されていたのは、ある意味杉ヶ乢という障壁がもたらした奇跡と言っても過言ではない。

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