教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(23)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆昭和28年までの出雲街道筋の経路を記した図

中鉄バスの古い路線図を眺めると、昭和18年現在杉ヶ乢を越え勝山と新庄とを結ぶバス路線が、同14年の時点では影も形もない。この路線図だけを切り取ってみると、あたかも杉ヶ乢を越えるバスが昭和10年代半ばまで存在しなかったかのように映るが、そうではない。

それ以前から杉ヶ乢越えの路線バスが存在した事実は、大正期に美伯自動車が発足し、それと入れ替わりで勝山自動車が運行していたのだが、戦時統合により勝山自動車が山陽自動車に買収され、その後中鉄バスに一本化されるという経緯があり、路線図ではその流れがすっぽりと抜け落ちている。

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◆昭和28年以降の出雲街道筋の遍歴を記した図

杉ヶ乢を越えるバスは大正中期から戦前にかけて、美伯自動車⇒勝山自動車⇒山陽自動車⇒中鉄バスと経営者が矢継ぎ早に入れ替わり、その都度車両も大型化されていたものと推察されるが、現場検証の結果並びに目撃者の証言から、晩年は小型のボンネットバスが投入されていた様子が浮かび上がる。

目撃者や乗車体験者の話をまとめると、現在のマイクロバスよりも小さくワゴン車よりは大きかったというから、山陽自動車が岡山⇔津山間で中国鉄道と鍔迫り合いを演じていた頃のバスよりも、一回り小さなボンバスであった可能性が大だ。でなければ寺河内集落の最狭区は克服出来ない。

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◆寺河内周辺の国道の経路&遍歴を記した図

今日の県道321号勝山神代線を踏破したドライバーに、峠道をかつてはバスが走っていたと言っても、誰一人まともに取り合ってくれはしないだろう。西町、布組、名草、寺河内の各集落には、魔娑斗のローキックで粉砕する程度のショボいバス停が置かれ、ほぼ全ての住民が乢越えのバスに依存していた。

但し新庄線は便数が1日数本と少なかった為に、昭和30年代に入っても尚歩いて峠を越える者が少なくなかったという。昭和28年に乢道は国道の肩書を外されている。なのに路線バスも大八車も徒歩で峠を越す者も、ほぼ全ての者が寺河内経由で行き来している。

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◆神代周辺の国道の経路&遍歴を記した図

それは二級国道181号線に指名された荒田廻りの路が、まともに車両が通れるか否かに関係無く、会議室で決定されたに机上の空論に過ぎない事を物語る。地元民に言わせれば危なっかしくて車で通れたもんじゃないという悪路で、それは支富田の人間が一旦神代へ出て乢道を越していた事からも頷ける。

今日の地図を眺めても神代と勝山の間は、県道経由と国道経由で2倍にも及ぶ距離の相違がはっきりと認められるが、地元民はそれを倍以上とか3倍と表現する者もいて、いかに荒田廻りの路が非効率且つ敬遠されているのかを如実に表している。遠回りの路は快走路があって初めて市民権が得られる。

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◆神代⇔勝山間の国道の経路&遍歴を記した図

そうでない場合は単なるクズだ。荒田の先の重則地区には、唯一の二級国道181号線時代の面影を残す旧道区間が現存するが、それは大型車を通す為に昭和30年代前半に改修された路で、改修前の様子を今に伝えている区間は皆無である。残念ながらその姿は想像するより他ない。

ただ昭和30年現在で乢道に比し倍の距離だの3倍を要するだのと、あからさまに距離損を指摘される嫌われ松子並みの敬遠のされ具合からして、重則と支富田の間の断崖路は里道として昭和初期には日の目は見たのであろう。しかしそれは信頼性に欠けるデンジャラスな道で、積極的に利用する者はなかった。

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◆現国道と旧旧国道の間に挟まれる鼻挽馬のいた下茶屋

本来ならば短絡路の成立を歓迎すべき立場の支富田の住民にもそっぽを向かれた荒田廻りの路が、昭和28年にふなっしー並みの狂気乱舞に仮面舞踏会のナイヤヤヤヤヤティア状態に陥るのも無理はない。何せ里道の身でありながら二級国道への大抜擢であるから、そりゃぁ無駄に跳ねまさぁねぇ。

明治以来国道のポストから外れた例がない乢道は、国道19号線から二級国道181号線へのスライドという既定路線からまさかまさかの陥落で、キンタローが模写する前田の断末魔以上の雄叫びが、この界隈の山中に木霊したであろうし、乢道沿線住民の落胆ぶりも半端ではない。

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◆国道を挟んで対峙する県道459号線は国道三等の続き

乢道陥落の一報を受けた沿線住民が一丸となってドリカムのLOVE LOVE LOVEのイントロをエンドレスで大合唱したであろう事は想像に難くない。

ねぇ、どうして〜♪

しかし路線バスは新国道筋を経由せずに、従来通り乢道を走り続けた事で、住民は足を奪われずに済んだ。昭和34年度に二級国道181号線が面目を一新すると同時に、バス路線も荒田廻りに切り替えられたが、今でも杉ヶ乢を越えるマイカーは少なくない。彼等は自らの行動によって主張する。杉ヶ乢は今でも荒田廻りの国道より使い勝手が良いのだと。その優位性は未来永劫変わらないのだと。

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