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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>杉ヶ乢 |
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杉ヶ乢(21) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆張り出した県道の法面で幅員は1.5mを割っている (大)神代には杉ヶ乢の上り坂の鼻引きをする馬が、いつも五頭ほどいた。神代橋のたもとで待っていると、杉ヶ乢まで馬で大八車を引っ張ってくれた。乢には茶屋があって、どうしても一休みしていた。大正ごろまでそうだった。 (茶)神代橋に新庄や美甘から荷物を積んできた大八車が、二十台も三十台も集まり、順番に馬の鼻引きで峠へ上っていました。私が三十歳くらい(大正期)までそうでした。杉ヶ乢の道幅はいまもむかしとおなじようなものです。 |
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◆路面は田んぼの如し泥濘となっている悪路 昭和40年代から50年代にかけて小谷氏が街道沿いに住まう古老への聞き取り調査を実施しているが、氏は杉ヶ乢に於ける当時の大八車引きと茶屋の主の双方への取材に成功している。上段の(大)が大八車引きの高村鶴吉氏で、下段の(茶)が乢道で茶屋を営んでいた重藤えいさんである。 あれ、重藤ってどっかで聞いたような。そう、出雲街道保存委員会の副会長の重藤氏である。重藤邸の周囲五軒ほどは全て重藤姓を名乗っている。副会長が重藤えいさんの末裔である事はほぼ間違いない。小谷氏は聞き取りで乢道には茶屋が複数存在した事実を突き止めている。 |
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◆今では通る者がないのか現場は荒れ放題 (布)勝山から荷物を積んできた大八車は、布組から馬の鼻引きで峠を越えました。昭和16、7年まで馬が鼻引きをしていたのを覚えています。 (名)馬が盛んに通っていたのは大正10年頃までで、馬車もそのころまでだった。人力車は乢まで1人では引けないので、布組から鼻引きをしていた。自転車を馬が引っ張り頂上まで上がるのを見た事がある。人は自転車に乗ったままで、珍しい光景であった。 |
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◆田畑との落差が解消されつつある地点で道らしくなる 上段の(布)は布組で昭和22年まで茶屋をしていたという神庭としさんで、下段の(名)は祖母と母親が代々名草で茶屋を営んでいたという稲田実氏である。勝山と寺河内の間には等間隔で小集落が点在する。寺河内をパスする江戸道改明治三等国道の起点が名草で、布組はその下流に位置する。 乢のみならず昔はそのどちらにも茶屋があったと両者は述べている。更に勝山の玄関口にあたる西町の外れにも茶屋があり、寺河内と神代及び乢の茶屋を加えると、杉ヶ乢には総勢で11軒の茶屋があったのだと小谷氏は結論付けている。 杉ヶ乢には11軒の茶屋が連なっていた |
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◆トラクターが出入りする地点で車道である事に気付く 布組に地元の人が茶屋を出し、夏はアメ湯を売っていた。明治が本場で一休みする人もあったが、大正にはやめていた。鼻引きは昭和になってからも第二次大戦が始まる前まで、ぼつぼつやっている人もあった。 大正末期に勝山自動車会社のバスが杉ヶ乢を越えていた。大戦中は木炭車だったが、乗客に後押しをしてもらい峠越えをしていた。荒田廻りの道は悪くて、支富田の人も杉ヶ乢へ回り勝山へ出ていた。戦後もしばらくはそうだった。 |
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◆真っ当な車道とは言い難いが人力車の通行は余裕 今、はっきりと茶屋跡が確認できるのは乢の西側にある更地のみで、その他の茶屋は集落に埋もれてしまいパッと見は見分けが付かない。それらの乢道に連なる茶屋が一掃されたのは、大正末期であるという。理由は単純だ。乗合自動車が杉ヶ乢を越え勝山⇔新庄間を往来するようなったのだ。 石川会長がその頃のバスはフォードかシボレーを改造した、5、6人のバスであったと語る。当時の車両で国産車は稀で、目にする車両の大半が輸入車であったというから、杉ヶ乢を越した最初のバスは外車であったはずだと語っている。当時のバスについて國本喜代三郎氏はこう述べる。 |
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◆獣避けの鉄製扉が街道筋を辿る者の行く手を阻む 勝山自動車会社の自動車はフォードの幌付きでした。前に運転手と助手が乗り、後ろに乗客三人と計五人が定員です。乗客が一人でも多い時は“國本お前は小さいから辺りに乗っておれ”と六人無理して乗る始末。路線は新庄に津山方面、あとで刑部通いが出来、そこで大変な事故がありました。鉄道でも不通となった集中豪雨に、刑部帰りの車が強硬突破し、窪みに落ち込んで横転、乗客の一人営林署の役人と助手が投げ出され、助手が水死するという事故でした。大正十四年七月十二日の事です。 杉ヶ乢22へ進む 杉ヶ乢20へ戻る |