教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(20)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆集落を貫通する県道筋は明治17年度完成の明治新道

木炭時代は乢前集落で乗客は下車

勝山からの便は寺河内停留所より全員下車し、新庄からの便は神代停留所での下車を余儀なくされたのだという。女・子供・老人は乗車したままで、男性陣が下車してバスを押すというパターンもあるが、杉ヶ乢は有無を言わさず全員下車である。

終点までの料金を払っているのに、乗客は徒歩移動を余儀なくされるのだ。その分の割引は無い。男性陣による押しが不可避であった他の峠と比すれば、バスが空車だと自力で登り切ったというのが、せめてもの救いであろう。

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◆かつては木炭バスも走ったという神代集落内の乢道

重藤氏も石川氏も当時の車掌は若い女性であったという。峠の手前で乗客に下車を促すのは、運転手ではなく車掌の仕事である。申し訳なさそうに客に頭を下げ、誘導したであろう姿が目に浮かぶ。誰一人文句を言う者はなかったというが、下車をお願いする側からすれば罵倒されて然るべき胃の痛い話だ。

一体全体誰がそのような状況を作ったのかと、怒りの矛先は時の参謀や政府に向けられるはずだが、憲兵の睨みが利いている手前表立った主張は出来ない。人々は与えられた環境の中で、ただただ耐え忍ぶしかなかった。昭和25、6年まで木炭車が走っていたというから、10年近く運行していた計算だ。

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◆軽自動車同士の擦れ違いも困難な狭隘路が続く

荒田廻りの道がそこそこの出来であれば、バスは高低差の少ない荒田経由になったのではないかと思うが、それは現地の事を知らない素人的発想であると石川氏は言う。荒田と神代の間には人家が一軒も無い。加えその間は断崖絶壁に阻まれ取り付く島が無い。その事は僕等も実際に目の当たりにしている。

青と緑の橋で結ばれる以前の国道はそれなりの難所で、大型車の通行は容易でなかった事は頷ける。それでもバス路線の切り替えが昭和35年辺りまでずれ込んだ事に首を傾げざるを得ないのは、昭和21年以降の地形図では荒田経由が本線の如し極太の二重線にて描かれているからだ。

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◆書類上は昭和28年に切り替わった新国道と旧国道

本当に杉ヶ乢を上回る規格の路が通じているならば、戦後はすぐにでも経路を切り替えるべきではなかったか。何故峠の手前で乗客を降ろしてまで、杉ヶ乢経由での運行にこだわったのであろうか?その理由が僕にはさっぱり分からなかったが、聞き取り調査でその理由がはっきりとした。

バス会社が荒田廻りに難色を示したのではない。沿線住民が杉ヶ乢経由を自ら望んだのだ。峠の上りは歩かねばならない面倒を差し引いても、当時はそれが最善の選択肢であった。何故ならこの界隈の住民は誰一人マイカーを持ってはいなかったからだ。彼等にとってバスの経路変更は死活問題であったのだ。

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◆事実上は昭和34年度に切り替わった新国道と旧国道

まだ戦後を引き摺っている昭和20年代は、庶民にとってマイカーなど夢のまた夢である。まずは破壊された労働環境並びに衣食住の必要最低限の生活水準を確保せねばならない。その次にようやく自転車や三種の神器ときて、マイカーなど二の次三の次である。

そんな時代に長距離移動を可能とするバスは、鉄道の通じないこのエリアの住人にとって必要不可欠な生命線であった。燃料は木炭で賄い峠の上りは降りて歩かねばならない。割れた窓ガラスはベニヤ板で覆われ、パンクしたタイヤには麦や藁を押し込んで、騙し騙し運行する。

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◆神代集落への下り途中にある石柱の矢印を検証

国民総蟹工船と言っても過言ではない惨状ではあるが、神代の婆ちゃんは語る、あの頃は皆現状に納得していたのだと。その当時は全てが砂利道で舗装路という比較対象がない。どんなに苦しくても戦地に駆り出されないだけマシ、空襲がないだけマシと先の大戦を引き合いに出し、前だけを見据えていたという。

故猪瀬東京都知事は昭和16年夏の敗戦で、シミュレーションで必敗と分かっていながらも、超大国との戦争に突き進んだ理由を、場の空気であると結論付けている。あの頃は誰もNOとは言えない空気が支配的であり、国民の間にもどんよりとした閉塞感が漂っていたという。

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◆明らかに江戸道の香ばしい匂いが漂う怪しさ満点の小径

状況を打破するには、ああするしかなかったのだと。その結果が乗客は運賃を払っているにも拘らず、峠の手前でバスを降りる或いは押す、この様だ。今、その状況に酷似していると古老軍団は警鐘を鳴らす。

90超えの瀬戸内寂聴女史もその一人で、現状はまるで昭和17年頃の日本であると瀬戸内ジャクソンは訴える。僕等の世代も近い将来バスを押す羽目になるかも知れない。そんな事を考えながら僕は杉ヶ乢最古の路へと足を踏み入れた。

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