教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(19)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆20m前後の深さで大規模に掘り割られた切り通し

戦後も杉ヶ乢をバスが越えた

地図信者にとってこれは新鮮な驚きに違いない。何せ昭和7年補正、同21年発行の地形図では、荒田廻りの道、即ち現在の181号線筋が本線として扱われ、極太の二重線で描かれているのである。相対的に杉ヶ乢は細線に変更されている。

内務省地理調査所の地形図を鵜呑みにすれば、国道は杉ヶ乢経由から荒田廻りへと改められ、それに伴い路線バスのルートも極太の線で描かれる新道に切り替わったと考えるのが自然だ。しかしその実態はまるで異なる。

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◆切り通しを抜けた直後の左手に更地を捉える

私が嫁いできたのは昭和39年で、その頃は今の国道が砂利道で道幅も狭く、車同士が擦れ違うのも大変な道でした。乢道よりも若干広いくらいで、距離は乢道の倍はありますから、荷物を沢山積んだ大八車も乢を越していました。

神代の婆ちゃんは語る。物資の移動に於いて昭和39年の時点では、まだ大八車が主流であったのだと。昭和40年に免許を取得しオート三輪を購入してから、集落の者も徐々に大八車から自動車に変えたのだという。そしてその頃は上り下りの面倒はあっても、ほとんどの者が杉ヶ乢を越えていたという。

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◆かつて乢に茶屋があったいいその跡地の可能性が大

俺が小さい頃は、バスが乢を越していたな。初めに見たのは木炭だった。今のマイクロか、それよりももっと小さかったかも知れん。それがガソリンに代わったのが昭和25、6年だったか、その後もしばらくは乢道を走っていた。

戦後生まれの神代のおいちゃんは、幼き日に目撃した自宅の前を通過するバスを“変なバス”として記憶しており、それが後に木炭バスであった事を知る。“変なバス”から脱却した路線バスは、その後もしばらくは杉ヶ乢を越していたという。昭和21年の時点で本線が荒田廻りとする地図と証言が乖離している。

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◆茶屋跡を過ぎた直後に出雲街道の石柱を捉える

昭和28年に荒田廻りの道が国道に指定されたが、現状は何も変わらなかった。ただ国道に指定された事で予算が付き、昭和35年頃だったか大型車が通れるようになった。その頃にバスも荒田廻りになった。

神代の婆ちゃんから出雲街道なら重藤さんが詳しいと紹介され重藤宅を訪れると、なんと氏は出雲街道に石柱を設置する保存会の副会長であるという。しかし出雲街道の遍歴については分からないという。そこで会長の石川氏を紹介され、副会長と共に勝山へ急行し、得られたのが上記の証言である。

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◆石柱の矢印が妙な方向を指しているが無視して直進する

勝山郷土史には昭和31年に荒田⇔勝山間の改修に着手し、同34年完工とある。また着工時期は記されていないが、昭和48年に神代⇔荒田間が完工となっている。昭和39年にバスは荒田廻りであったとする婆ちゃんの証言からして、昭和48年の改修とバス路線の変更がリンクしていないのは明らかだ。

恐らく荒田⇔勝山間の改修時に、神代⇔荒田間にも何等かの手が入っている。それを一次改修とすれば、昭和48年に青と緑の橋を架け、二車線舗装化まで成し得た改修は二次改修という見方が出来る。一次はとりあえず国道としての体を成す為に、そして二次は名実共に国道となる為の二段仕込である。

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◆県道は緩やかな勾配で神代の集落内へと滑り下りる

バスは昭和25、6年まで木炭で、その後もしばらくは乢を越えていた、昭和39年の時点でバスは荒田廻りだった、昭和35、6年にバスは荒田廻りに切り替わっている、これら複数の証言に郷土史の資料を加えた落とし所として、昭和35年度に荒田経由の二級国道が暫定的に成立との解釈が成り立つ。

書類上は昭和28年に荒田廻りの道が二級国道181号線になっている。しかし会長の石川氏が述べているように、指定が先で改修工事は予算が付いての後追いであるから、数年のタイムラグがあって然るべきで、昭和30年代に入っても尚路線バスが杉ヶ乢を越えていたとの見方が妥当である。

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◆この地点で神代集落全体が視界に飛び込んでくる

寺河内にしても神代にしても、杉ヶ乢が国道だったとかバスが乢を越していたとか、大概の住民が平然と答えられるのも、杉ヶ乢が国道の役職から外れたのが昭和28年で、バス路線から外れたのも昭和30年代半ばと古くて新しいからだ。

杉ヶ乢が国道でなくなってからまだ60年程しか経っておらず、戦前戦後を通じて杉ヶ乢の様子を知る者は少なくない。重藤氏や石川氏も戦時中の峠道についてはよく覚えていて、木炭時代の乗客は神代と寺河内の双方で下車して歩いていたという。

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