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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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杉ヶ乢(18) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆視界前方に大きく窪んだV字の割れ目を捉える 本郷川右岸道路は三等国道 多くの者にとってそれは大した意味はない。出雲街道筋を辿る街道ウォーカーにとっても食指は動かないだろう。フォーカスはあくまでも江戸時代であり、彼らにとってそれ以外はどうでもいい話である。 ただ幕末から明治にかけて重きをおいている者ならば、本郷川右岸の砂利道が国道指定された事実は無視出来ない。今でいう点線国道の類なのかも知れないが、一度でも国道に指名されたという実績は揺るがない。 |
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◆峠の直前だけは左右に振って勾配を緩めている 明治18年1月6日、太政官布達第1号の國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ヲ定ムにより、国道の等級が廃され番号制が導入される。同年2月24日の内務省告示第6号では、東京を起点とする44本の路線が国道に指定されている。 二十四號 東京ヨリ島根縣ニ達スル路線 全国から選抜された精鋭路線の中に、なんと出雲街道が組み込まれていたのである。落選必至の下馬評を覆す電撃入選である。最終決断を下した山縣有朋は、杉ヶ乢の現状を知らないまま、一軍に出雲街道を起用した。 |
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◆明治ではなく大正の改修時のものと思われる石垣 今更だが丁度いい機会なので、山縣君が指定した杉ヶ乢の現状を、当時を知る者に語ってもらおうジャマイカ。 十五、六俵積んだ車は神代から杉ヶ乢のうねまで、車一台に一頭の鼻挽馬を雇わねばならなかったので、一日の稼ぎが一円二十銭くらいの車挽きとって杉ヶ乢は、身を削られるような気のする難所であった。この鼻挽馬をかけねばならないのは、荷車挽だけでなく、人力車挽も同じであったから、神代や寺河内には鼻挽馬が相当いて、これを稼ぎにするのは年寄りや女の人であったから、適当な副業として成り立っていた |
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◆数年前に峠の直前のみ改修され二車線になっている 今、杉ヶ乢は峠の手前が大幅に改修され、普通車同士の擦れ違いを許す二車線に拡幅されている。僕が始めてこの峠を越えた際には、路面は舗装済であったけれど、一車線の狭隘路が蛇行する所謂三桁剣道であった。それが今では御覧の通りすっかり姿形を変えている。 中島藤太郎氏が遺した証言内容は、あくまでも明治40年頃の杉ヶ乢であって、山縣有朋プロデュースのKKD44結成時の峠道ではない。明治40年現在の杉ヶ乢が荷車も人力車も先導の馬に牽引してもらわねば行き来出来なかったというから、相当な激坂であったのは間違いない。 |
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◆切り通しの一部が拡幅され開放的になった杉ヶ乢 荷車や人力車が通っていたという事は、幅員は足りていたのだろう。しかし車両という車両が峠道を自力で克服出来ないのだから、勾配が尋常でない事は明らかだ。良くも悪くも山縣有朋率いる内務省は、現代の常識を逸脱したイレギュラーな道をチョイスし、KKD44の一期生を世に送り出した。 恐らく明治17年の秋に杉ヶ乢の完工が間近という情報は、内務省の上層部にも伝わっていたであろう。江戸道とは一線を画す明治新道が日の目を見つつある、下から上がってきたこのような情報を頼りに、国の命運を左右する44路線は策定された。しかし蓋を開けてみればトンデモ坂であったのだ。 |
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◆切り通しの中心は今も国道時代の状態を保っている 実態がどうであろうと明治18年の春には、出雲街道は晴れて国道24号線を名乗り、少なくとも書類上では廿四號國道として扱われている。標識等の整備が成されていないので、一般にR24という数字が浸透した否かは定かでないが、雲州・雲伯といった旧来の呼称は、時間の経過と共に希薄となっている。 今日の県道321号勝山神代線が国道24号線だった事を知るものは皆無である。ましてや住民はそれ以前に三等国道であった事実など知る由もない。ただ聞けばほぼ例外なく昔の国道だよと、寺河内の古老は答えてくれる。それは国道の肩書を失ってから、それほどの歳月が経っていない事を意味する。 |
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◆20m前後で掘り割った広角の深々とした切り通しが続く 事実昭和28年まで勝山と新庄を結ぶ路線バスは、杉ヶ乢を経由している。それは大正9年4月1日の道路法改正で、杉ヶ乢が國道十九號と引き続き国道を名乗った事と、昭和28年5月18日発布の政令第九十六号に起因する。 この年国道の抜本的な再編が成され、出雲街道は二級国道181号線として新たなスタートを切る。その際に経路は杉ヶ乢から荒田廻りへと改められ、それに呼応する形で路線バスも新庄川伝いを行き来するようになったという経緯がある。 杉ヶ乢19へ進む 杉ヶ乢17へ戻る |