教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(17)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆寺河内集落内でコの字型で反転する明治新道

県道321号線は寺河内の集落内でコの字型に折れ曲がる。短橋梁で本郷川を一跨ぎし、明後日の方向へUターンする形になるが、T字路を直進する部外者が多いのか、橋の袂には左折が本線である事を示す手作りの案内板が設置され、木片には大きな文字で米子とだけ記されている。

公式の標識には小さく神代と記されているが、それだと他所から来たドライバーは判断が付かない。土地勘がない者に神代と特定の地域名を挙げても、それがどこに位置するのか分かるはずもなく、本郷川伝いに遡上したのだから直進が無難と考えるドライバー心理も良く分かる。

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◆峠道は反転した途端に急激に勾配を増す

そうやって数多の車両が寺河内の集落内を真っ直ぐに突き抜け、山中で行き詰まる袋小路に迷い込んだのだろう。実際に僕は寺河内のT字路で、地図と睨めっこしている車両を何度か見掛けている。県道番号とその直下にL字の矢印を設ければ解決するように思われるが、現場にはそのどちらも見当たらない。

峠を越して来た者にとってはひたすら下界へ降りるだけなので、T字路を自然と右に舵を切る事になるが、逆の場合はどちらへ上り詰めるのかは判断に迷う。分かり易い案内板を設置すれば済む話であるが、不親切なT字路は今後もしばらくは、ぶらりと訪れた者を悩ます事になりそうだ。

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◆左手より一足先に高度を稼いだ江戸道が接近する

この判断に迷う経路に変更されたのは明治17年度で、それまでは寺河内の集落をパスする一本道が本線であった。集落内で反転した車道は一定の勾配で一目散に駆け上がるが、左手より接近する旧道は段々畑の最上階を横這いに進み、かなり手前から高度を稼いでいる事が分かる。

現県道筋は急斜面をL字状でカットし、左右には家も無ければ取り付く島も無い。対する旧道は段々畑との関係が密で、本郷川を挟んで県道と対峙する砂利道が、後付けの新設林道でない事は明白だ。寺河内集落をスルー線形には少々違和感があるも、砂利道が旧道である事は絵図等からも疑う余地がない。

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◆集落以降は明治17年度に成立した生粋の明治道

この峠道を行き来するドライバーは意識していないであろうが、寺河内集落の前後を繋ぐ道筋は明治10年代に敷設された新道で、それ以前は出雲街道を行き来する全ての者が対岸の土道を伝っていたのだ。木製の案内板に米子とあるのも、県道筋が旧出雲街道である事を暗に主張しているからだ。

舗装済の狭隘路も対岸の砂利道も歴代の出雲街道で、拡大解釈をすれば県道321号線は国道181号線の旧旧道、本郷川を挟んだ対岸の砂利道は国道181号線の旧旧旧道という見方が出来るが、実はそのどちらも国道を名乗っていた事実を、寺河内生え抜きの者でもほとんどが知らない。

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◆寺河内集落の外れにある江戸道と明治新道の交点

勝山を中継点として津山から米子へ至る道筋は、今でこそ出雲街道という呼び名が定着しているが、その昔は雲州往来とか雲伯往来等の複数の呼称があり、時代によっても呼び方が異なり、また地域によっても名称はまちまちで、街道筋の名称が一本化されるのは明治以後の事である。

現在はどの地域に於いても国道181号線で統一されているが、まだ国家としての体を成していない明治黎明期には、街道や往来といった呼称が継承されていた。その慣習に終止符を打ったのが、明治6年8月2日に大蔵省達番外として発布された河港道路修築規則である。

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◆かつては馬の鼻挽が無ければ登れなかったという急坂

時の大蔵省は全国の道路を重要度に応じて三区分に仕分けしている。「全国ノ大経脈ヲ通スル者」を一等道路に、「各部ノ経路ヲ大経脈ニ接続スル脇往還枝道ノ類」を二等道路に、「市街郡村ノ利害ニ関スル経路等」は三等道路とした。一等=国道、二等=県道、三等=里道と思って差支えない。

明治6年の河港道路修築規則で出雲街道は二等道路に指定されている。江戸時代は五街道に準ずる大道として整備されたのだから、一等道路に指定されても良さそうなものであるが、まだ西南戦争も始まっていないカオス状態であるから、取り急ぎ新しい枠組みを設けたに過ぎない。

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◆この峠道が国道24号線を名乗った時代を知る者は皆無

河港道路修築規則から3年と経たずして発布されたのが、御存知太政官達第60号の道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ムで、この改定により出雲街道は晴れて国道三等の称号が冠される。明治9年6月8日の事である。

その当時の出雲街道は杉ヶ乢を越え、しかもルートは寺河内をパスする本郷川の右岸道路が本線であった。即ち僕が初見で新設林道と見間違えた砂利道は、8年以上に亘り国道を名乗った正真正銘の国道筋なんである。

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