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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>杉ヶ乢 |
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杉ヶ乢(16) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆名草の新旧道交点以降の県道筋は生粋の明治新道 勝山からの上り途中にある名草地区から、くの字に折れ曲がる寺河内地区にかけて、本郷川を挟み県道321号線と並走する砂利道は、明治の半ばに新設される国道以前の旧道であるという。道中には享保17年と彫り込まれた石造物が認められ、名草には小さな木橋が架かっていたという。 江戸中期には旭川を跨ぐ橋梁が存在したくらいであるから、江戸道に本郷川を跨ぐ短橋梁があったとしても何等不思議でない。本郷川右岸の砂利道が江戸道である根拠は、明治7年の道標が右岸道路に設置されていたとか、一里塚の根株跡が認められる等の幾つかの物的証拠である。 |
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◆本郷川左岸道路は谷底の田畑とはほぼ接点がない それら複数の証拠に加え、右岸道路が江戸道である事を決定的としているのが、天保7年の神代村絵図と明治新道の敷設直後に作成されたと思われる赤岩家所蔵の神代村地図である。古地図を照合するとある日を境に本郷川の左右で本線が切り替わっている事に気付く。 隧道や橋梁のように銘板がある訳でもなく、また改修記念碑のようなものも見当たらないので、路線切り替えのはっきりした日付は分からない。しかし小谷氏が昭和50年代に行った明治生まれの古老軍団への聞き取りで、大凡の切り替え時期やその理由等が詳らかとなっている。 |
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◆寺河内集落に入ると県道の幅員は極端に狭まる 寺河内の集落は、日当たりのいい山すそに固まっているが、旧街道は反対側の山陰になる。地元の古老は「むかしの道は日陰になり、雪も溶けにくい。そのために明治に作った道は、日当たりの良い反対の集落側にしたのだろう」という。 確かに県道筋は日当たりが良い。朝から夕方まで1日を通して太陽光が注がれる。それを知った上で寺河内の集落は本郷川の左岸に形成されたのであろう。対する江戸道は夏期を除き日中のほとんどは陽が差し込まず、太陽光発電には不適なジメジメとした薄暗い山裾を辿る。 |
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◆本線がUの字を描く直前が県道321号線の最狭区 何故江戸道が寺河内集落を経由せずに、本郷川右岸に付けられたのかは定かでないが、その理由を説明するのに最も説得力があるのが、最短経路を重んじる江戸道の特徴だ。勝山と神代を結ぶ経路は、誰がどう見たって現国道の荒田経由より、寺河内経由の方が距離は短い。 そして県道321号線筋に於いて寺河内集落を経由するよりも、本郷川右岸で上り詰めた方が若干距離は短くなる。全ては徒歩通行での最短最速路線を確立する為の、合理的発想に基づいてコースが決定されたと思えば納得もいく。兎にも角にも明治の半ばに出雲街道筋は、寺河内経由に切り替えられた。 |
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◆最狭区に設置されたガードレールによって圧迫感が増幅 今日我々が行き来する寺河内地区の県道筋は、明治20年代以降に敷設された馬車道で、それ以前は峠道を行き交う全ての者が、本郷川右岸の土道を辿って上り下りしていた。一般にその道筋は人畜のみが有効の小径とされているが、左岸道路成立以前に車両が行き来していたのは間違いない。 何故なら明治20年頃の新庄村では、人力車が疾走しているからだ。新庄村を貫通する路で最大の路線は、言うまでもなく出雲街道である。その最難所である四十曲峠が先行して開削されたというのはちょっと考え辛く、また四方が山に囲まれる新庄に、出雲街道を凌ぐ楽な道は存在しない。 |
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◆本線は短橋梁で本郷川を一跨ぎし明後日の方向へ進む 従って人力車流入の玄関口は、当然勝山と見做すのが妥当だ。勝山から人力車が伝播したとなれば杉ヶ乢を越えるのは必至で、そうなると明治一桁、遅くとも明治10年代には、峠道は車両の通行を許す状態になければ辻褄が合わない。 目下字杉ヶ乢開鑿工事モ不日成功可相成 明治17年9月24日の真島群長宛の文書の中には、杉ヶ乢に関する文言が盛り込まれている。そこには杉ヶ乢の開削工事が完工間近である様子が記されている。この公文書を額面通り受け取れば、明治17年に新道が完成したとの解釈が成り立つ。 |
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◆T字路には米子と彫り込まれた手作りの案内板がある 真島群長宛の文書からは、早ければ明治17年末、遅くとも明治18年の春には、杉ヶ乢の新国道が日の目を見たものと思われ、そうなると明治20年頃に新庄村に人力車が入っていたとしても何等おかしくはない。 杉ヶ乢の開削が久世の直線道路よりも先行している事実に驚きを隠せないが、これにより人力車が寺河内集落をパスする江戸道を伝ったのではなく、明治新道の開通を待って勝山以西へ進出した可能性が高まった。 杉ヶ乢17へ進む 杉ヶ乢15へ戻る |