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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>杉ヶ乢 |
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杉ヶ乢(15) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆本郷川の右岸を遡上する至極真っ当な砂利道 江戸年間に車両の通行を許す上橋を有し、明治2年には下橋が車両通行に対応した勝山は、人力車が出現する以前にインフラが整っていた。勿論それらは人力車の登場を予見しての事ではなく、あくまでも勝山町域を行き来する大八車の往来を考慮しての架設である。 しかし結果的に明治黎明期の勝山は、人力車の受け入れ体制が整っていた。江戸年間は久世と勝山の間ですら車両の往来は許されず、それなりの小径で両町は結ばれていたものと推察されるが、勝山の江戸橋群は当界隈の陸上交通がスムーズな転換が図られた事を示唆する。 |
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◆4トン車でも通行可能な整備良好のダート道が続く 実は勝山のみならず久世にも江戸時代に架設された橋が存在する。それが享保7年の久世町絵図に描かれる天神橋で、竣工年は定かでないが出雲街道筋に架かる橋梁は、十五間の石橋と記されている。最終的に国道181号線を名乗る天神橋は、今も生活道路として健在だ。 その橋の存在が勝山だけが特別でなかった事を物語る。出雲街道筋を往来する者は石橋や木橋によって、身体を水に沈める必要もなければ川舟に乗り換える面倒もない。確かに五街道に準ずる大道として整備された出雲街道は参勤交代路でもあったから、障害が取り除かれていたとしても何等不思議でない。 |
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◆谷間の田畑へアクセスするのは基本的にこの砂利道 江戸時代の勝山では官道以外にも橋が架かり、隣の久世にも石橋が存在した。この事から目木川を跨ぐ紫雲寺橋が、江戸時代から架かっていたと推測する小谷氏の意見も頷ける。久世では明治一桁になって初めて中川橋が架かったが、あれは旭川を跨ぐ橋であって、目木川の規模は1/3以下と小さい。 勝山では江戸中期から旭川を跨いでいた事実を踏まえれば、目木川を跨ぐ紫雲寺橋が江戸時代に架かっていたというのも有り得なくはない。若かりし日の原敬が人力車で通過したのは、明治の橋かも知れないが、それが江戸時代に架設された橋である可能性も否定出来ない。 |
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◆整備され過ぎているせいか古道臭は一切感じられない 出雲街道筋の川という川に橋が架かっていたとすれば、歩道から車道への転換はそれほど難しい話ではない。沿道の受益者による道普請で、極短期間のうちに車道化は成されるはずである。久世界隈では明治一桁で人力車が走っていた事が確認されているが、恐らく勝山への搬入は久世よりも早い。 現時点でそれを裏付ける資料は無い。しかし同じ城下町である津山には明治4年に人力車が入っており、三大河川の吉井川を遡上して持ち込まれた点を踏まえれば、勝山も旭川を遡上する高瀬舟によって搬入されたとみるのが妥当だ。大八車の移動を許す勝山城下が、久世に遅れをとるとは到底思えない。 |
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◆視界前方右手に寺河内の集落を捉える 明治5年前後には勝山城下を人力車が疾走していた。僕はそう信じて疑わない。原敬は人力車を駆使して久世から勝山に入り、旭川沿いを遡行して真賀温泉で一泊している。原敬は上町のT字路を直進し神橋をスルーしているが、もしも氏が新庄方面に舵を切ったならば、間違いなく通ったであろう古道がある。 新庄方面を目指す際に幾度となくショートカットした杉ヶ乢に、県道と重ならない峠道が存在する。そいつは本郷川を挟んで県道と並走し、今日現在四輪の通行を許す仕様にあるが、県道との交点には平成になって設置された出雲街道の石柱が認められ、街道ウォーカーを未舗装路へと導く。 |
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◆砂利道は寺河内集落をパスして県道にぶつかる ダート路は峠の手前にある寺河内の集落をスルーし、一目散に杉ヶ乢へと駆け上がる。果たして本郷川の右岸を伝う砂利道は、本当に出雲街道なのであろうか?セオリー通りであれば古い集落を伝う道筋が古道で、寺河内集落をパスする未舗装路はバイパスにしか見えない。 しかし寺河内集落を過ぎた先の交点にも、出雲街道の石柱が建っていて、街道筋を辿る者を砂利道へと誘導する。それが後付けの遊歩道で、歩行者の安全面に配慮して新設されたように見えなくもないが、そうでない事は今を遡る事40年も前に、小谷氏がこの砂利道を伝っている事からも明らかだ。 |
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◆寺河内をパスする砂利道は国道三等を名乗った旧国道 本郷川の右岸道路が江戸時代より連綿と受け継がれる路で、寺河内集落内を伝う県道321号線筋は、車両の通行を意識して敷設された明治新道なのだという。僕はてっきり杉ヶ乢を越える県道筋がそっくりそのまま出雲街道だと思い込んでいた。 しかしこの峠道がそんな単純なものでない事は、旭川を跨ぐのが中橋ではなく上橋である事、加え寺河内集落をパスする旧道の存在からも明らかで、明治新道が敷設される以前は、全ての車両が江戸道を伝っての峠越えを余儀なくされた。 杉ヶ乢16へ進む 杉ヶ乢14へ戻る |