教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(14)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆センターラインは消えても基本的に二車線幅を確保

川西村の建議書は、少なくとも明治22年まで勝山と新見を結ぶ現県道32号線筋が、中橋経由であった事実を物語る。勝山の商店街を抜け出た新町の十字路を右折し、中町のT字路で左折した本線は中橋を渡り、対岸の十字路を左折し下橋との交点で右に折れ曲がる。

コの字を描き無駄に大きく膨らむ線形は、効率を無視した悪しき慣習と言っても過言ではない。下橋が無いならまだしも鳴戸橋が存在した上での話であるから、既得権を手放すのがいかに難しいかを如実に表す事例と言える。確かに中町にとって中橋が一等里道の肩書を剥奪されるのは許容し難いものがある。

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◆集落が途絶えた辺りからじわじわと幅員が狭まる

同じ里道でも一等と三等では豪い違いである。一等里道は将来県道への昇格が見込まれる有望株であるのに対し、三等里道はいつ何時地目が山林等に変更されてもおかしくない危うい路線である。現代人に例えれば年収100万円以下の人間扱いされるか否かのデッドラインに位置する崖っぷち路線である。

享保16年に中橋と下橋は共に藩の許可を得て架設されているが、先行したのが中橋である事は絵図が示す通りである。その順位決定のプロセスについては定かでないが、西町で出雲街道と枝分かれする路が、官道を補完する役割を高く買われたか、或いは単純に旭川上流域から松竹梅とした可能性もある。

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◆再び集落が現われた辺りでは1.5車線に縮まる

いずれにしても享保年間から明治の半ばまで、中橋は上橋に次ぐ存在であり続けた。しかしそれはあくまでも書類上の話で、実際の利用頻度は鳴戸橋が上回っており、その逆転現象を正すよう求めたのが明治22年の建議書で、それが受理された事は今日の橋の現況を見比べればよく分かる。

上橋と下橋は普通車同士の擦れ違いを許す真っ当な規格にあるが、中橋だけは突出してショボい。旭川の氾濫で流失しても誰も気付かない、ビジーフォーのいたっけ島田氏状態に陥ってしまう中橋は、今すぐにでも正式名称を“あったっけ中橋”と改称し、希薄な存在を逆手に取り世に知らしめる必要がある。

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◆名草地区の橋の袂に出雲街道のナビゲーターを捉える

何故なら中橋は現県道32号線の祖であるからだ。明治の半ばまで中橋は勝山と新見を結ぶ主要路に認定されていた。明治の付け替えで中橋も車両通行に対応したと思われるが、時既に遅しである。明治2年の架け替えで車両の通行を許した下橋が、上橋に次ぐ事実上の二番手に伸し上がる。

旧態依然とした中橋は一等里道の肩書を死守するも、人々は自然と下橋を往来するようになり、明治22年遂に中橋は戦力外通行を受ける事になる。これにより中橋は三等里道への格下げが行われ、今に至っては車両の通行を許さない完全なる人道橋として、軽く扱われている。

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◆石柱は橋を渡り対岸を伝うのが街道の本線と指示する

しかし元を辿れば中橋は現県道32号線筋の祖であり、勝山と荒田の間が国道181号線を名乗っている点を踏まえ拡大解釈をすれば、国道に成り損ねた悲運の道という見方も出来る。また江戸時代では勝山町内をショートカットする出雲街道の代替線としての価値もあったから、出雲街道と無縁ではないのだ。

今でこそ中橋は歩行者専用橋として幅員も狭められているが、昭和30年代の橋幅は3mと広く、自動車の通行を許していたのは間違いない。杉ヶ乢を越える県道321号線が中橋の袂を起点としている事から、仮に中橋が車道として現在も供用されていたならば、上橋から覇権を奪っていた可能性は大である。

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◆小さなコンクリ橋を渡ると路面は未舗装路に切り替わる

中橋が真っ当な車道規格であった場合、上橋の存在意義はほとんど無いに等しい。強いて挙げれば神橋は勝山町内で最も上流に位置するから、上流域の住民にとっては使い勝手が良いかも知れない。しかしそれ以外の者にとっては、県道321号線と直通する中橋の方が遥かに利用のし甲斐がある。

車両の通行が制限されている為に、中橋の復権は叶いそうにない。しかし条件が横並びであったならば、勝山大橋を除く三橋で中橋が最上位に躍り出るのは間違いない。正確を期せば中橋は一度も出雲街道を名乗った例がない。しかし町民が利用するだけの単なる生活道路に終始する道でないのも確かだ。

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◆本郷川の右岸には極上のフラットダートが続いている

立ち位置が微妙な中橋を歴史の表舞台から排除したのが下橋で、その後は鳴戸橋が国道橋の名を勝ち取り、勝山大橋へと引き継がれ旭川下流域の覇権が決定的となった今、最終的な覇者は下町と言わざるを得ない。

しかしそれまでの道程はけして平坦ではなく、上町との30年戦争に端を発し、覇権を奪うまで実に200余年の長期に及び、下橋が国道橋の称号を得たのは、驚異の粘り腰による成果であったと言っても過言ではない。

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