教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(13)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆勝山小学校の裏手を伝う県道321号線の旧道

享保の絵図に描かれる新仮橋は、神代方面より勝山市街地へとロス無く滑り込み、中橋の成立によって神橋が無駄に遠回りしているかのように映る。しかし中橋が神橋から覇権を奪ったとする記述はどの文献にも見当たらない。事実昭和30年の時点で神橋の幅員が5.5mであるのに対し、中橋は3mと狭い。

現在は軽自動車一台が通れるか否かといったくらい道幅は狭く、先代はそれより広かったにせよ大型車一台の通行がやっとの狭い橋で、往還橋の名を冠されるまでには至らなかったに違いない。中橋が県道321号線の起終点と直結している事から、当初僕はそれが出雲街道筋であると決め込んだ。

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◆基本一車線の旧道筋には何気に待避所が備わる

しかし神橋の何たるやを知った今となっては、いくら中橋経由の路が江戸中期の最短経路であったとしても、官民を問わず主要機関が神橋の袂に集中している優位性から、中橋や下橋が追随したところで全く揺るがない。少なくとも江戸年間は上橋>中橋>下橋という重要度は不変であったに違いない。

ただ明治になって中橋の優位性に陰りが見え始めた。明治2年に架けかえられた下橋が、中橋の規格を上回る使い勝手の良い橋へと刷新されたのだ。その当時の利用価値の高い道とは、車両の通行を許す規格の路である。即ち明治黎明期の鳴戸橋は、車両通行に耐え得る構造であったのだ。

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◆旧道筋は現県道より5m前後高い位置を横這いに走る

恐らく江戸時代から勝山では車両の往来があった。但し移動は城下町域に限られ、峠を越すなどして他所のエリアとの行き来は叶わない。それを実行しようとしても当時はまともな峠道が無いのだ。従って他地域との交流は無理にせよ、勝山市街地内で大八車による物資の移動は許されていた。

但し江戸前期までの勝山は、旭川の右岸と左岸に隔てられ、何をするにも渡し舟を必要とした。そこで町民の苦労を見かねた藩は、神橋の架設に着手する。町史は初代神橋の架設年を寛文としているが、小谷氏は複数の古文書を引っ張りだし、正保2年ないし3年に下橋が存在した可能性に言及している。

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◆建物の多くは刷新されているが古道の雰囲気が残る

神橋を巡る上町と下町の30年戦争では、双方から御上に対し文書が提出されている。その中に実に興味深い文言がある。「五十年以前、橋があったと伝えている」「五十二、三年以前から橋あり」「五十三余年以前下からのはしについては」等々下町に橋が存在した事を窺わせる内容の文言が並ぶ。

元禄12年に提出された文書に大凡50余年前に下町に橋が架かっていたとある事から、小谷氏はいつ架設されたかは不明であるが正保年間には下橋が存在し、勝山に於ける橋梁の起源は更に遡るとの含みをもたせている。いずれにせよ下町はかつて存在した下橋の既得権を盾に争っているのである。

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◆大正時代までは旧道が本線として供用されていた

寛文5年に上町に橋が架けられた際には、下橋は姿形も無い。恐らく旭川の氾濫で流失したのだろう。神橋は藩の御墨付きを得て架設された橋で、しかも出雲街道筋の一端を担う重要な橋であるから、天変地異でも起きない限り不動のものである。従って下町界隈の心中は穏やかではない。

いくら下橋が先だと言っても後の祭りである。往還橋と称される神橋から覇権を奪うのは容易ではない。勝手に橋を架けても撤去されてしまうから、粘り強い交渉力が要求される。兎に角藩の御墨付きが得られない限り二進も三進もいかないのだから、下橋の必要性を訴え続けるしかない。

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◆新旧道が交わる美保神社より峠方向を望む

30余年の長きに亘る陳情が功を奏し、享保16年にようやく架橋の許しが出て、同17年には新仮橋(中橋)が架設され、それに下橋(鳴戸橋)が続いた。上中下の三橋が揃い勝山は更なる発展を遂げる事になるが、中橋と下橋はあくまでも人馬の往来を許す人道橋で、上橋だけが車両通行に対応していた。

それが明治2年に架けかえられた下橋によって状況は一変する。恐らく下橋は車馬の通行を許す規格にあった。上橋を上回る規格にあったかどうかは定かでないが、少なくとも中橋は軽く上回っていたに違いない。だからこそ人々は下橋を日常的に利用するようになり、中橋と下橋の逆転現象が顕著となった。

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◆新旧道の交点を過ぎてもしばらくは二車線路が続く

明治22年の建議書では20年間の利用状況から、中橋の一等里道は最早有名無実であるとし、下橋の優位性を訴えると共に等級の格上げを要求している。その陳情が採決されたであろう事は、明治32年測量の地形図からも読み取れる。

明治32年の時点で荒田橋を渡り月田を経て、大佐とその先に待つ新見へと続く車道の姿が描かれている。それが中橋経由から鳴戸橋経由へと改められた一等里道で、それが今日の県道32号線筋に他ならない。

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