教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(12)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆昭和中期の香り漂う古風なコンクリ製の神橋

150年超の時を隔てた二基の道標が並ぶT字路、その先に架かる橋は昭和中期製の古風なコンクリ橋で、昭和30年現在で土橋であった点とビジュアル的な観点から、昭和30年代に付け替えられたものとみてよかろう。その時点で神橋は最低でも親子二代である事は確定している。

神橋が新庄川伝いの新道が成立する以前に、出雲街道を名乗っていた主要路である点と、100年に一度の大氾濫を起こす旭川の脅威に晒されていた点を踏まえれば、四代或いは五代と代を重ねているのは間違いなく、鳴戸橋との比較からも神橋の起源が江戸時代に遡っても何等不思議でない。

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◆旭川の氾濫を意識してか神橋は嵩上げされている

川西村の建議書は鳴戸橋の竣成が明治2年で、それ以前に中橋及び国道橋が存在したとしている。それらが明治元年に竣成した明治橋という捉え方が出来なくもない。実際に神橋は上橋の別名があり、また鳴戸橋は下橋とも呼ばれ、上中下と称される三本の橋は兄弟橋という見方も出来る。

しかし明治以前は渡し舟が当然という固定観念は、神橋の存在によって木端微塵に粉砕する。町史は語る、初代神橋の成立時期は寛文五年であると。寛文五年と言われてもピンと来ないので西暦に直そう。1665年である。今から遡る事凡そ350年も前に神橋は架けられたのだ。それも旭川の激流にだ。

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◆中橋と神橋の間にはほぼ完全な形で舟着場が残る

初代神橋の架設は江戸前期

架橋の難易度は川幅と水深に比例する。川幅が短ければ短いほど架設は容易となるし、水深も浅く水流も常時安定していれば尚良い。勝山付近の旭川は水深が浅く水流も安定しているが、川幅が80m超と広くこれがネックとなる。

それに何と言っても100年に一度の確率で発生する大水によって、せっかく造った橋が流されてしまうという懸念がある。村の一大事業が一瞬で消失するリスクを考えると、なかなか架橋のゴーサインを出せるものではない。

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◆対岸で国道313号線を貫通し直進する出雲街道

だからこそ江戸時代の河川は渡し舟が主流であったし、場合によっては川底に身を沈めての川渡りを余儀なくされた。ところがここ勝山では江戸前期の終わり頃には、神橋が架かっていたというのである。確かにその姿は元禄12年の高田村絵図にも描かれ、そこには往還橋と記されている。

往還橋とは神橋=往還の橋、即ち出雲街道の橋である事を示唆する。神橋の延長線上にあるT字路に道標が認められる事、加えその道が西町を貫通し杉ヶ乢へ通じている事からも間違いない。では中橋の存在意義とは何なのであろうか?そして明治の地形図にも描かれる初代中橋の架設はいつ頃なのか?

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◆国道313号線との交点直後より道幅が急激に狭まる

その問いに享保17年の高田村絵図が答えてくれる。1699年に描かれた絵図から33年を経た1732年の絵図には、神橋の下流域にもう一つの橋が描かれており、その橋には新仮橋と記されている。西町の外れで二手に分かれ、中町へとダイレクトに滑り込むその橋が、中橋である事を疑う余地はない。

即ち中橋もまた江戸時代を起源とする橋で、江戸中期の勝山には旭川を跨ぐ橋が二本も架設されていた事になる。しかし驚くのはまだ早い。実は鳴戸橋も中橋の架橋直後に架けられたのだと町史は訴える。勝山町史前編の高田上往還橋一件文書がそれだ。そこにはこう記されている。

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◆2トン車の通行が精々の完全一車線の狭隘路と化す

元禄4年に往還橋の下流域に下町が新橋を設けた。それに対し上町が不当であると異議申し立てを行う。この訴えに対し御上は橋の撤去を命じ、初代下橋は旭川の藻屑と消えた。これを機に上町と下町は断絶状態に陥り、以後下町は架橋の正当性を訴え続けたのだという。

それから30余年の月日が流れ、その間も旭川の渡橋は往還橋一本で賄っていたが、享保16年遂に念願の橋梁架設許可が正式に下り、上橋に中橋と下橋の二橋が加わる事になった。余談だが橋を巡る長年の懸案に決着を付けたのが、時の南町奉行大岡越前とされている。

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◆水害とは無縁の高台を横這いに進む出雲街道

中橋と下橋は同時に架設許可が下りたが、実際の着工が中橋優先であったのは、高田村絵図が示す通りである。その順番が影響したのか明治初期の中橋が一等里道で、下橋は三等里道の役職に甘んじている。

兎にも角にも明治2年に架設された下橋は江戸橋の付け替えに過ぎず、その歴史は中橋と下橋が共に300年超、上橋に至っては350年の長きに亘り、旭川に分断される勝山の東西を結ぶ生命線として、今も昔も必要不可欠な存在となっている。

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