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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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杉ヶ乢(11) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆高田宿上町のT字路に鎮座する大小二基の道標 後に国道181号線を名乗る事になる鳴戸橋は、竣工当時の通行者が刀を下げた侍や丁髷の男性であった事を思えば、江戸時代の橋梁と見做しても何等おかしくはない。事実明治2年とは元号が変わったに過ぎず、規律や生活様式に至る何もかもが江戸時代のままである。 川西村の建議書は明治黎明期に架設された鳴戸橋以前に、勝山には二本の橋が存在したと述べている。ひとつは一等里道の橋、即ち中橋であるが、もうひとつの橋がどこにあるのか僕にはさっぱり見当が付かない。ヒントは明治22年の時点で国道の橋であるという事のみである。 |
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◆道標の雲伯往来は出雲街道、倉吉道は倉吉街道を指す 建議書には国道の橋とだけしか記されてはいないので、橋名もそうだがその所在地さえ分からず、現存するか否かも判断が付かない。しかしひとつだけ気になる路線がある。それが杉ヶ乢へ通じる県道が二車線をキープする西町の外れで、右手よりぶつかってくる1.5車線の狭隘路である。 西町の交点まで二つの路線が3m前後の比高を以て並走している。その様子から1.5車線路が旧県道の可能性は十分に有り得るが、中橋が国道181号線の旧旧道と信じて疑わない僕は、初動時に見て見ぬふりをした。まさか旭川の上流域に大本命の橋が控えているなど想像すら出来なかったのだ。 |
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◆京都大阪を最終目的地としている所が大道の証拠 実際に初見では完全スルーを決め込んだし、駅前商店街を抜けた直後の十字路より高田宿の外れまで行き切る事もしなかった。しかしどうしても気になる点があった。それが中橋の経路上に道標が認められない事である。道標が撤去や移動させられる事は、けして珍しい訳ではない。 従って中橋へ通じる宿場内のT字路に道標が見当たらない点については、特に違和感がある訳ではなかった。しかし追分の六角道標を目の当たりにしているだけに、出雲街道と倉吉街道及び備中街道が交わる交通の要衝に、規模の大小に関わらず道標が見当たらない事は不自然に思えた。 |
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◆大きい道標は嘉永5年、小さい道標は元禄2年の設置 そこで僕は西町の交点より1.5車線路を勝山市街地へ向け逆走した。するとトンデモナイ代物に出くわした。狭隘路は中橋の上流に架かる第四の橋へと通じており、そいつを渡り終えた宿場のT字路の角に、なんと巨大な道標が鎮座していたのである。それも時を隔てた二基が並んでいるではないか。 東 大仙倉吉道 西 右京大坂 南 左雲伯往来 北 嘉永五年 |
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◆観光用も含め上町のT字路には三基の道標が並ぶ 新旧の道標が仲良く並んでいる様は追分のそれと瓜二つで、設置時期は追分よりも10年ちょい早い嘉永5年である。幕末日本に風雲急を告げるペリーが浦賀に来航する一年前で、これを設置した際には、まさか15年後に世の中がひっくり返るなど誰一人想像出来なかったに違いない。 南面の雲伯往来とは出雲街道の事を指し、東面の大仙とは中国地方の屋根である大山を指している。特筆すべきは西面で、京都及び大阪を最終目的地としており、流石出雲街道が五街道に準ずる大道だけの事はある。恐らくもう一基の道標にも同様の行き先が彫り込まれているものと思われる。 |
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◆新庄川伝いの新道成立までこのT字路が本線を名乗った 小さい道標は風化により一部が判読不能であるが、元禄二年三月という設置年は辛うじて読み取れる。二つの道標には150年超の隔たりがあるのだ。この交点が出雲街道と倉吉街道の分岐点である事を疑う余地はない。だとすれば中橋の出雲街道説は、僕の勝手な思い込みに過ぎないのであろうか? それを探る上でこのT字路を起終点とする橋梁を押さえておかねばなるまい。この交点の先で旭川を跨ぐ橋を神橋という。神橋は中橋の僅か200m強の上流域に架かり、勝山市街地の旭川に架かる四橋のうち最も上流域にあり、そして勝山最古の橋梁であると町史は謳う。 |
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◆このT字路より出雲街道は神橋を渡り杉ヶ乢へ至る 橋上で普通車同士の擦れ違いを許すコンクリ橋は、現状のみで言うといつ何時付け替えられてもおかしくはない昭和中期製の草臥れた橋である。現存する神橋が歴代の橋で初の永久橋である可能性も有り得る。 事実昭和30年現在の神橋は、幅員5.5mの単床式土橋と記されている。昭和30年の時点で土橋であったという事は、我々現代人が行き来する神橋は、神橋史上初の永久橋である可能性が大だ。その起源は江戸時代に遡ると町史は訴える。 杉ヶ乢12へ進む 杉ヶ乢10へ戻る |